昼のチャイムが鳴ると、教室の空気が一段ゆるんだ。
椅子を引く音、笑い声、鞄を肩にかける気配が一斉に広がる。
「行こっか」
レンがそう言って立ち上がる。
俺と命、日和、恵もそれに続いた。
食堂までの廊下は混んでいたが、もう立ち止まることは少ない。
視線を浴びるのも、噂されるのも、今では背景みたいなものだ。
空いているテーブルを確保して、弁当を広げる。
自然と同じ配置になるのも、もう説明はいらなかった。
「今日は少し静かですわね」
最初に口を開いたのは恵だった。
扇子でも持っていそうな落ち着いた口調で、周囲を一瞥する。
「週の真ん中ですもの。皆さん、お疲れなのではなくて?」
「確かに」
日和が頷く。
「テストもまだですし、逆に気が抜けてるのかも」
「それはあるかもね」
レンが苦笑する。
「でも小テスト、来週あるじゃん、ちょっと憂鬱だなぁ」
「レンは分かりやすいな」
「苦手なものは苦手なの!」
そんなやり取りに、命が小さく箸を動かす。
会話を聞いているが、中心には入らない。
恵はその様子をちらりと見てから、視線を俺に戻した。
「天城様――いえ、隼人様」
名前呼びに直すのを、あえてはっきりと。
「週末は、何かご予定がおありですの?」
唐突だが、逃げ場のない聞き方だった。
「……まあな」
「まあ、とは?」
恵の問いに、少しだけ間を置く。
隠すほどのことでもない……か。
視線が集まっているのは分かっていた。
「週末、パートナーと出かける」
一瞬、空気が止まる。
「まぁ旅行だな」
言葉を足すと、恵の眉がわずかに動いた。
「……一泊、ですの?」
「その予定だ」
恵は口を閉じ、箸を持ったまま動かない。
計算が頭の中で走っているのが、手に取るように分かる。
「なるほど」
そう言って、何事もなかったように弁当に視線を落とした。
だが、その声音は、さっきより少しだけ硬い。
その時だった。
「……え?」
小さな声。
向かいを見ると、命が箸を止めていた。
珍しく、はっきりとこちらを見ている。
「旅行、ですか」
「ああ」
短く答えると、命は一度視線を落とし、もう一度顔を上げた。
「……その、遠いんですか」
意外な質問だったが、
それ以上に――命の表情が、ほんの一瞬、固まっている。
「わからない」
そう答えた途端、命の目がわずかに見開かれた。
「……パートナー、いらっしゃったんですね」
確認するような声。
否定される余地を、どこか期待していたようにも聞こえる。
「ああ」
短く返す。
命は一拍遅れて視線を落とし、箸を持ち直した。
「……そう、でしたか」
それだけ言って、弁当に目を戻す。
だが、箸先が止まったまま、しばらく動かない。
驚き。
そして、想定していなかった事実を飲み込もうとする、沈黙。
恵が気づいたように、命を見る。
「御堂さん?」
「いえ」
命は首を横に振る。
「何でも、ありません」
そう言いながら、どこか落ち着かない。
レンが空気を変えようと、軽く言った。
「へえ、旅行かあ。いいなあ。僕も澪さんを誘ってみようかな」
「いいんじゃないか」
「お二方はあまり女性に忌避感がないのですね」
恵は驚いている。
命は、もう一度だけ俺を見た。
言葉はない。
けれど、さっきまでとは違う何かが、確かにあった。
ちょっと残念そうなのだろうか?命が反応するのは少し意外だった。
食堂を出ると、昼休みの後半に入った校舎は少しだけ落ち着いていた。
教室に戻るにはまだ早い。そんな空気を読んだように、レンが言う。
「屋上、行こっか。今日は風、気持ちよさそうだよ。
「賛成ですわ」
恵が即答する。
命は何も言わなかったが、否定もしなかった。
階段を上がり、屋上の扉を押す。
きしむ音と一緒に、外の光と風が流れ込んできた。
和敬の屋上は、常時解放されている。
事故防止のためのフェンスはあるが、閉塞感はない。
むしろ、空が近い。
「うわ、いいねここ」
レンがフェンスに近づき、腕を伸ばす。
「昼寝したら最高そう」
「やめてくださいませ。授業に戻れなくなりますわよ」
恵がたしなめるが、声はどこか楽しそうだ。
俺はフェンスから少し離れた位置で、コンクリートの縁に腰を下ろす。
命は、少し遅れて隣に座った。
距離は、昼よりもわずかに近い。
「屋上、使える学校って珍しいですよね」
日和が周囲を見回しながら言う。
「前の学校は、立ち入り禁止でした」
「ここは割と緩いよな」
「男子が少ないから、問題も起きにくいのかもしれませんね」
恵がさらりと言う。
それが事実なのが、この学校だ。
会話は他愛ない話に流れていく。
授業のこと、先生の癖、次のテストの範囲。
けれど。
俺の隣で、命はあまり喋らなかった。
視線は空に向いているが、どこか定まらない。
フェンスの向こうを見ているようで、実際には見ていない。
「……風、強いですね」
ぽつりと、命が言った。
「そうか?」
「はい。少し」
俺が感じているより、彼女には強く感じるらしい。
しばらく沈黙。
恵はレンと日和を相手に話している。
わざとらしいほど、こちらを見ない。
「さっきの話」
命が、急に言った。
「さっき?」
「……いえ。何でもありません」
言いかけて、引っ込める。
その仕草が、やけに不器用だ。
「気になるなら、言えばいい」
俺はそう言った。
深い意味はない。ただ、思ったことを口にしただけだ。
命は一瞬だけこちらを見る。
「……隼人さんは」
名前を呼ぶ声が、少しだけ揺れた。
「いろんな人に、優しいんですね」
「そうか?」
「はい」
レンはフェンスにもたれ、日和はその隣で空を見上げている。
命は、静かに風に当たっていた。
その中で、恵だけが――妙に落ち着いた顔をしていた。
「ところで」
不意に、恵が口を開く。
「先ほどのお話ですけれど」
全員の視線が、自然と集まる。
「旅館に一泊、ですのよね」
確認するような口調。
だが、答えはもう分かっているという目だった。
「まあな」
俺が短く返すと、恵は小さく頷く。
「でしたら」
そこで一拍置く。
「それは、“そういうこと”ですわよね」
言葉を選んでいるのが分かる。
けれど、誤魔化す気はない。
「パートナーとしての責務を、果たそうとしていらっしゃる」
空気が、ほんの一瞬だけ静まった。
レンは頬を染める、あの日の事を思い出しているのだろう。
日和は困ったように微笑んだまま。
命は、何も言わずに、ただ風に揺れるフェンスを見ている。
「まぁそうだな」
俺はそう言って、軽く肩をすくめた。
そして、小さく頷く。それだけで、十分だった。
「やっぱり」
恵は、どこか納得したように息を吐く。
「立派なことですわ」
皮肉でも、冗談でもない。
素直な評価だった。
「その覚悟があるのなら」
そこで言葉を切り、ふっと微笑む。
「なおさら、目が離せませんわね」
チャイムが鳴る。
昼休みの終わりを告げる音が響く。