※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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29話 遥香さんと旅館へ

 マンションのエントランスを抜けると、朝の空気は少しひんやりしていた。

 平日よりも人通りが少なく、時間の流れがゆるい。

 

 歩道脇に停まっている一台の車が、すぐに目に入る。

 見覚えのある色。控えめで、主張しすぎない。

 

 近づくと、運転席の窓が下がった。

 

「おはようございます、ハヤトさん」

 

 久しぶりに聞く声だった。

 

「おはよう。待たせた?」

「いえ。ちょうど来たところです」

 

 そう言って微笑む。

 以前と変わらない、落ち着いた表情。

 けれど、ほんの少しだけ、目元が柔らかい。

 

 後部座席に荷物を積み、助手席に乗り込む。

 ドアを閉めると、車内は静かだった。

 

「久しぶりだな」

「そうですね。少し間が空きました」

 

 それだけのやり取りなのに、不思議と気まずさはない。

 むしろ、安心感の方が先に来る。

 

 車はゆっくりと走り出し、街中を抜けていく。

 

 最初は信号も多く、見慣れた景色が続く。

 やがて高速に乗ると、景色が一気に開けた。

 

「今日は、天気がいいですね」

「ああ。旅行日和だな」

 

 窓の外には、広い空と流れる雲。

 遠くに連なる山の輪郭が、少しずつ近づいてくる。

 

 会話は多くない。

 だが、それが不自然に感じない。

 

 音楽もかけず、エンジン音と風切り音だけが続く。

 トンネルを抜けるたび、光が車内を明るく照らした。

 

 高速を降りると、道は一気に細くなる。

 カーブが増え、街の気配が薄れていく。

 

 代わりに、木々が増えた。

 山の緑が濃く、空気が少し冷たい。

 

「この辺りから、温泉が有名なんです」

「なるほど。確かに、雰囲気あるな」

 

 川沿いの道を走る。

 水面が陽を反射してきらめき、流れの音が微かに聞こえる気がした。

 

 人の手があまり入っていない場所。

 携帯の電波も、ところどころ弱くなる。

 

 しばらく走ると、道端に小さな看板が現れた。

 年季の入った文字で、”山間温泉佳月”と書かれている。

 

「もうすぐです」

「思ったより奥だな」

「はい。でも、その分静かですよ」

 

 車が止まる。

 

「着きました」

「ああ……来たな」

 

 車を降りると、空気がはっきりと違った。

 街の匂いが消え、山の冷たい空気が肺に入ってくる。

 

 目の前にあるのは、山あいに建つ温泉旅館だった。

 

 二階建ての木造建築。

 外壁は落ち着いた茶色で、年数は経っているが古びた印象はない。

 木の柱や梁がそのまま見える造りで、いかにも老舗といった佇まいだ。

 

 屋根は大きく、軒が深い。

 日差しを遮り、建物全体に落ち着いた影を作っている。

 

 玄関へ続く道は石畳。

 

 玄関の両脇には背の低い灯籠(とうろう)。

 昼間でも明かりが入り、客を迎えるための目印になっていた。

 

 入り口には紺色の暖簾(のれん)が下がっている。

 白抜きで書かれた宿の名前は、派手ではないが読みやすい。

 

 建物のすぐ後ろは山だ。

 木々が近く、自然に囲まれているのがはっきり分かる。

 

「静かなところだな」

 

 そう言うと、隣で彼女が頷く。

 

「観光地から少し離れているので、人も少ないんです」

 

 玄関の前に立つと、周囲の音が自然と小さくなった。

 車の音も、人の声も、ほとんど聞こえない。

 

 ここなら遥香とゆっくりした時間を過ごせるだろう

 

 引き戸を開けた瞬間、外の山の空気とは違う、静かに整えられた気配に包まれた。

 

 磨き込まれた木の床。

 正面には低く生けられた花があり、控えめに季節を主張している。

 

 帳場の奥から、着物姿の美人若女将と仲居さんが現れ、丁寧に一礼した。

 

「ようこそお越しくださいました。山間温泉・佳月旅館でございます」

 

 柔らかい声だが、無駄がない。

 

「恐れ入りますが、ご予約でいらっしゃいますか」

「水瀬です」

 

 遥香が落ち着いて答える。

 その一言で、仲居さんの表情がわずかに和らいだ。

 

「水瀬様でございますね。お待ちしておりました」

 

 帳場の前で一通りの確認が終わると、仲居さんは小さく帳面に目を落とした。

 

「恐れ入ります。お食事のお時間についてご案内いたしますね」

 

 顔を上げ、二人を見て続ける。

 

「ご夕食は、十八時と十八時半、どちらになさいますか」

「十八時半でお願いします」

 

 遥香が迷いなく答える。

 

「かしこまりました」

 

 仲居さんは筆を走らせ、続けて言った。

 

「朝食は、七時半から九時の間でお選びいただけます」

「では、八時で」

「承りました」

 

 淡々としたやり取りだが、無駄がない。

 時間が決まることで、滞在の輪郭がはっきりしていく。

 

「ほかにご希望などはございますか」

「いえ、大丈夫です」

 

 遥香がそう答えると、仲居は軽く一礼した。

 

「本日はごゆっくりお過ごしくださいませ」

 

 そう言ってから、自然に荷物へと目を向けた。

 

「お荷物、お預かりいたしますね」

「ありがとうございます」

 

 遥香が応じ、俺も軽く会釈する。

 こうしたやり取りに、彼女は本当に慣れている。

 

「では、お部屋までご案内いたします」

 

 仲居さんの後ろについて、館内を進む。

 廊下は長すぎず、ところどころに中庭が見える造りになっていた。

 障子越しの光が柔らかく、足音も吸い込まれるように消えていく。

 

 すれ違う客の姿はない。

 人の少ない時間帯を選んだのだろう。

 

「静かで、いいところだな」

 

 思わず口にすると、遥香が小さく笑った。

 

「でしょう? ハヤトさん、こういう場所の方が落ち着くと思って」

 

 否定はしない。

 むしろ、その通りだった。

 

 廊下の奥、控えめな佇まいの扉の前で、仲居が立ち止まる。

 

「こちらがお部屋でございます」

 

 木の引き戸が静かに開かれる。

 畳の匂いがふわりと広がり、大きな掃き出し窓の向こうには露天風呂があった。

 

 仲居さんは一通り目を配ってから、静かに一礼する。

 

「お部屋のご説明は、後ほど改めていたしますね」

 

 そう言って、扉を閉めて下がっていく。

 

 残された静けさの中で、俺は息を一つ吐いた。

 

「……着いたな」

「ええ」

 

 遥香は窓の方へ歩き、外を眺めてから振り返る。

 

「まずは、少し休みましょうか」

「そうしよう」

 

 畳に腰を下ろして、少しだけ間が空いた。

 外の景色を眺めたり、荷物を脇に寄せたりする程度の時間。

 

 その静けさを壊さないように、控えめな音がした。

 

 ──こん、こん、こん。

 

「失礼いたします」

 

 障子が静かに開き、先ほどの仲居が盆を手に現れた。

 湯気の立つ湯呑みと、小さな菓子が二つ、丁寧に並べられている。

 

「お待たせいたしました。お茶をお持ちいたしました」

 

 低い卓に盆を置き、二人分の湯呑みをそっと差し出す。

 

「ありがとうございます」

 

 遥香が受け取り、軽く会釈する。

 俺もそれに倣った。

 

「それでは、改めてお部屋のご説明をさせていただきますね」

 

 仲居さんは正座し、視線を落ち着かせてから話し始めた。

 

「そちらの窓を開けていただきますと、庭に面した露天風呂がございます。天然の源泉かけ流しでして、お部屋付きのお風呂はお時間を気にせず、二十四時間ご利用いただけます」

 

 指先で、部屋の隅を示す。

 

「浴衣はそちらの棚にご用意しております。サイズのご変更がございましたら、お申し付けくださいませ」

 

 続いて、廊下の方向へ視線を向ける。

 

「大浴場は、廊下を右に出て突き当たりでございます。お時間は二十四時までご利用いただけます、朝は六時からのご案内となっております」

 

 必要なことだけを、簡潔に。

 だが、説明には一切の無駄がなかった。

 

「ご夕食は、十八時半からでございます。お時間になりましたら、お声がけいたしますね」

 

 一通りを終えると、仲居さんは軽く頭を下げた。

 

「それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ」

 

 再び障子が閉まり、部屋には俺たち二人と、湯呑みの湯気だけが残る。

 

 俺は一口、茶を含んだ。

 

「……落ち着くな」

 

「ええ」

 

 遥香も湯呑みを手に、静かに頷く。

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