※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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30話 旅館でのんびり

 畳の匂いを吸い込み、静けさを確かめる。

 

 遠くで、かすかに湯の流れる音がしていた。

 時計を見ると、まだ余裕はあった。

 

「思ったより、落ち着きますね」

「そうだなのんびりできそうだ」

 

 荷物を端に寄せ、座布団に腰を下ろす。

 何も話さなくても、間が埋まる。

 

 旅館の時間は、ゆっくり流れている。

 

「大浴場、二十四時まででしたよね」

 

 遥香が、思い出したように言う。

 

「ああ。まだ十分ある」

「じゃあ……少し休んでから行きましょう」

 

 急ぐ理由はない。

 部屋の露天は、いつでも使えるし。

 

 テレビを見ながらだらだら過ごしていく。

 遥香と雑談していると時間を忘れていく。

 完全にリラックスしている。学校の事なんかすでに頭になかった。

 

 窓の向こうが、夕焼けに染まっていく。

 もうすぐ夕食だ。

 

 やがて、控えめなノック音。

 

「お夕食のご用意が整いました」

 

 静かな声に、遥香がこちらを見る。

 

「行きましょうか、ハヤトさん」

 

 頷き、立ち上がる。

 仲居さんの後ろを、並んで歩く。

 

「落ち着いた旅館ですね」

 

 遥香の声も、少し抑えめだ。

 

「山奥って聞いてたけど、悪くないな」

「ええ。人の気配が少ないのが、いいです」

 

 そう言って、わずかに微笑む。

 

 数回、角を曲がり、

 

「こちらでございます」

 

 引き戸が静かに開かれた。

 

 中は、十分な広さの個室だった。

 低めの卓と座布団、窓の外には、闇に沈みかけた山の稜線。

 

「どうぞ、こちらへ」

 

 仲居さんに促され、席に着く。

 テーブルには、すでに整えられた膳。

 白木の器が、きれいに並んでいる。

 最初の料理が運ばれてくる。

 

 小さな器に盛られていたのは、前菜。

 春野菜の白和え、菜の花のお浸し、

 それに、小さな鯛の昆布締め。

 

「きれい……」

 

 遥香が、思わず声を落とす。

 

「見た目から、テンション上がるな」

「ええ。こういうの、久しぶりです」

 

 箸を取り、ひと口。

 

 派手さはない。

 けれど、丁寧に作られているのが分かる味だった。

 

 少し間を置いて、次の膳が運ばれる。

 

「お造りでございます」

 

 透き通るような鯛と、季節の魚。

 氷の上に、さりげなく花穂紫蘇(かすいしそ)が添えられている。

 

「新鮮ですね」

「うん。変な匂いが一切ない」

 

 食べながら、言葉は自然と少なくなる。

 無理に会話をしなくても、空気が重くならない。

 

 しばらくして、仲居さんが小鍋を置いた。

 

 中央に据えられた、澄んだ出汁の鍋。

 まだ火は入っていない。

 

「本日の主菜、山菜と鯛の春しゃぶでございます」

 

 薄く引かれた鯛の身。

 籠には、蕗の薹、うるい、こごみ。

 春の色が、そのまま並んでいる。

 

「お出汁が沸きましたら、鯛をさっとくぐらせてお召し上がりください」

 

 仲居さんが下がり、火が入る。

 

 鍋が、静かに音を立て始めた。

 

 遥香が、箸を伸ばす。

 

「先、いいですか」

「どうぞ」

 

 鯛を一切れ、出汁に沈める。

 白く色が変わるのは、一瞬だった。

 

「……いただきます」

 

 口に運び、目を細める。

 

「……おいしい」

 

 俺も食べてみる

 

 鯛の旨みと、山菜のほろ苦さ。

 出汁は、主張しすぎない。

 

「落ち着きますね」

「食事で、こう思えるのは久しぶりだ」

 

 鍋の湯気が、二人の間をゆっくり流れる。

 

 部屋に戻ると、灯りは落ち着いたままだった。

 掃き出し窓の向こうは、もう夜の色に変わっている。

 

「ちょっと、満腹ですね」

 

 遥香が小さく笑う。

 

「動く気、しないな」

「今は、それでいいと思います」

 

 座布団に腰を下ろし、しばらく何もしない。

 会話も、無理に続けない。

 

 外は静かで、室内には、わずかな源泉の音だけがある。

 

「……こういう時間、好きです」

 

 遥香が、ぽつりと言った。

 

「ああ」

 

 それだけで、十分だった。

 

 リモコンを手に取る。

 軽くボタンを押すと、テレビが静かに立ち上がった。

 

 暗転した映像のあと、重厚な音楽が流れ始める。

 近未来を思わせる街の俯瞰映像。

 

「……あ」

 

 思わず声が漏れた。

 

 次のカットで、一人の女性の横顔が画面いっぱいに映る。

 冷たい光を受けた、見慣れた輪郭。

 

 ──天城沙織。

 

「母さんだ」

 

 一拍の沈黙。

 ドラマの台詞だけが流れ続ける。

 

「……え、本当に?」

「本当に」

 

 遥香はもう一度画面を見る。

 そこに映る女優と、隣にいる俺を見比べる。

 

「……沙織さんの、息子さんだったんですね」

 

「言ってなかったな」

「はい。まったく」

 

 驚きと戸惑いが入り混じった表情。

 けれど、すぐに小さく息を吐いて、苦笑する。

 

「でも……納得です」

「何が?」

「ハヤトさんが、どこか落ち着いているところ」

 

 そう言って、遥香は視線を少し伏せる。

 

「画面越しで見ていた沙織さんと、雰囲気が似ていました」

「そうか?」

「ええ。言葉にしなくても、伝わる感じが」

 

 一拍置いて、部屋の奥から、控えめな時を告げる音がした。

 壁の時計が、静かに針を進めている。

 

 遥香がふと顔を上げる。

 

「せっかくですし」

 

 遥香が、穏やかに続ける。

 

「今日は露天もありますけど……まずは、大きなお風呂に」

「そうだな」

 

 それで決まった。

 

 廊下を抜けると、空気が少し変わった。

 

 木の香りが、はっきりと分かる。

 どこか甘くて、落ち着く匂い。

 

 暖簾をくぐり、引き戸を開ける。

 

 脱衣所は静まり返っていた。

 衣類の入った籠はひとつもなく、気配は自分だけだとすぐに分かる。

 

 そのまま奥へ進む。

 

 湯気の向こうに、大浴場が広がっていた。

 

 一面、ヒノキ造りの湯船。

 縁も床も、淡い木の色で統一されている。

 源泉かけ流しの湯が、ヒノキの樋を伝って静かに注がれていた。

 

 洗い場も十分な数が並んでいるが、使われた様子はない。

 この広さを、今は一人で使っていいらしい。

 

 腰掛けに座り、シャワーをひねる。

 ぬるめの湯で、まず髪を濡らす。

 

 シャンプーを手に取り、軽く泡立てて頭皮を洗う。

 指先で流れを整えるだけ。

 

 続いて身体。

 泡を伸ばし、肩から腕、背中へと流していく。

 

 身体も洗いおわったので湯に入っていく。

 肩まで浸かる。

 

 湯の熱と一緒に、ヒノキの香りがふわりと広がる。

 肌に触れる木の感触が、思った以上にやさしい。

 

 誰にも気を遣わなくていい。

 話す相手も、考えることもない。

 

 広いヒノキ風呂を独り占めしている──

 その贅沢さが、ゆっくりと身体に染みていった。

 

 ただ、湯に浸かる。

 それだけで、十分だった。

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