朝七時。
目を覚ますと、遥香の顔が目の前にあった。三時間ぐらいしか寝ていないが不思議と目が覚めた。
隣では、遥香がまだ眠っていた。
規則正しい寝息。布団の端から覗く髪が、少し乱れている。
服は着ていない。
生まれたままの姿だ。
俺が体を起こすと遥香が起きてしまったようだ。
「……んっ……ハヤトさん、おはようございます……」
「起こしちゃったか」
「いえ、気にしないでください」
障子を開けると、山の稜線が朝靄に包まれていた。
さらに窓を開けると山の朝特有の澄んだ空気が気持ちがいい
「露天、入ります?」
「朝風呂、いいですね」
源泉かけ流しの湯は、夜よりも少しだけ温度が低い。
朝の空気に触れて、肌に心地いい。
湯の音が、静かに続く。
「ねぇハヤトさん見てください」
そういうと見せてきたのは下腹部だ。
俺は違和感にすぐに気づいた
昨日見た時より明らかに下腹部が膨れている。
「ハヤトさんのお陰でこんなにパンパンになってしまいました。これは妊娠確実ですね」
「まぁ昨日は沢山したからな」
「女としての幸せを感じます」
「それは良かった」
しばらくして部屋に戻ると、ちょうど朝食の時間が近づいていた。
「個室食事処にご用意しております」
仲居さんの声は控えめで、昨夜のことに触れる様子はない。
しかし頬を少し赤く染めていた。
朝食は、派手さはないが、どれも滋味深いものばかりだった。
炊き立てのご飯。焼き魚。山の野菜を使った小鉢。
「こういうの、いいですね」
「うん。旅館の朝って感じがする」
箸を進めながら、ゆっくり時間が流れる。
食後、部屋に戻ると、もう一度だけ露天の方を見る。
名残惜しさはあるが、後悔はない。
「また、来たいですね」
遥香が言う。
「次は、もう少し長く」
「ええ」
チェックアウトまでの時間、二人はただ並んで座り山の方を眺めていた。
旅館を出たのは、午前十時前だった。
若女将は見送りに来ていた。
俺と遥香の情事を盗み聞きしていたのを思い出す。
「本日は行き届かない点もあり、申し訳ございませんでした。次回お越しの際には、心ばかりではございますがサービスさせていただきますので、どうぞまたお立ち寄りくださいませ。」
そう言った若女将は女の顔をしていた。下心満々だ。
山道を下る車内は、行きよりもずっと静かだ。
ラジオはつけていない。
エンジン音と、タイヤがアスファルトを踏む感触だけが続く。
助手席の遥香は、窓の外を眺めている。
眠そうではなかった。
「……早かったですね」
ふいに、そんなことを言う。
「一泊だと、どうしてもな」
「でも、ちょうどよかった気もします」
「そうだな」
山を抜け、街並みが戻ってくる。
コンビニや信号、見慣れた看板が増えるにつれて、現実がゆっくり近づいてきた。
「また、忙しくなりますね」
「まあな」
それでも、声の調子は重くない。
マンションの駐車場に車を入れる。
エンジンを切ると、急に静かになった。
「送ってくれて、ありがとう」
マンションの前で、そう言うと、遥香は小さく頷いた。
「こちらこそ」
車を降りたあとも、すぐに離れようとせず、少しだけ間ができる。
その沈黙を埋めるように、俺は口を開いた。
「――よかったら」
一度、息を整えてから。
「母さんに、挨拶していかないか」
遥香が、目を瞬かせる。
「え……?」
一拍遅れて、意味を理解したのか、視線が揺れた。
「い、今からですか?」
「ちょうど帰ってるはずだし」
「無理なら――」
「いえ」
かぶせるように言ってから、少し慌てて言い直す。
「……あの、失礼でなければ」
声が、ほんのわずかに硬い。
「大丈夫だよ」
「気楽にしていい」
そう言った本人が、一番気楽じゃない。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。
密室の静けさの中で、遥香は両手を軽く握っていた。
「……緊張、しますね」
小さな声。
「母さんは、怖くないよ、たぶん」
「たぶん、ですか」
苦笑が返ってくる。
それでも、逃げようとはしない。
部屋の前に着き、鍵を開ける。
「ただいま」
こひなが勢いよく飛び出してきて、遥香の前でぴたりと止まる。
様子をうかがうように鼻を鳴らす。
「……こんにちは」
遥香は、犬相手にも丁寧だった。
リビングに足を踏み入れた、その瞬間。
「おかえりなさい、隼人」
母の声。
振り向くと、買い物袋を下げた母が立っていた。
「……あ」
遥香の背筋が、すっと伸びる。
「お母さま、初めまして」
深く、綺麗なお辞儀。
「水瀬遥香と申します。本日は、突然お邪魔してしまって……」
言葉が少し早い。
緊張を、隠しきれていない。
母は一瞬きょとんとしてから、ふっと表情を和らげた。
「あらあら」
「そんなにかしこまらなくていいのよ」
「どうぞ、上がって」
俺を見る。
「あなたが言い出したのね?」
「……まあ」
「でしょうね」
どこか納得したように笑う。
遥香は、まだ少し肩が強張っている。
「遠いところ、お疲れさま」
母が穏やかに言う。
「緊張しなくていいわ」
「噛みついたりしないから」
「……はい」
返事は素直だけど、硬い。
「こっち、座って」
ソファを示され、二人で並んで腰を下ろす。
母はしばらく二人を見てから、ぽつり。
「旅行、楽しかった?」
遥香が一瞬、俺を見る。
「……はい」
小さく、でもはっきり。
「とても」
その答えに、母は満足そうに頷いた。
「それなら、よかったわ」
「隼人、無理させてないでしょうね?」
「したかも」
「こらハヤト!ごめんなさいね?遥香さんうちの子が……」
「いえ!無理を言ったのは私の方でして」
張りつめていた空気が、少しだけ緩む。
遥香は、まだ緊張している。
けれど、逃げずに、ここに座っている。
母がキッチンに立ち、「お茶、淹れてくるわね」と席を外したあとだった。
リビングに残ったのは、俺と遥香、それからこひなだけ。
さっきまでの張りつめた空気が、嘘みたいに抜け落ちる。
遥香は、ソファに深く腰を下ろした瞬間、ふうっと長く息を吐いた。
「……正直」
少し照れたように笑ってから、ぽつり。
「すごく、緊張しました」
「だろうな」
「はい」
素直に頷く。
「足、ちゃんと床についてましたか?」
「自分でも分からないくらいで」
そう言ってから、鞄に手を伸ばす。
ごそごそと中を探って、何かを取り出した。
色紙だった。
「……あの」
少しだけ声を潜める。
「ちゃっかり、沙織さんのサイン、いただいちゃいました」
「貰ったんだ?」
「はいお願いして」
どこか誇らしげに、でも遠慮がちに。
「お茶を淹れてくださっている間に」
「“記念にどうぞ”って」
色紙には、慣れた筆致で書かれた母の名前と、短いメッセージ。
女優・沙織の、れっきとした直筆だ。
「……抜け目ないな」
「だって」
遥香は小さく笑う。
「ファンとしては、またとない機会ですから」
「緊張してた割には、しっかりしてる」
「それとこれは、別です」
即答だった。
そう言いながら、色紙を大事そうに鞄へ戻す。
「でも」
少しだけ、表情が柔らぐ。
「優しい方で、よかったです」
その言葉に、俺は何も返さなかった。
代わりに、こひなの頭を撫でる。
遥香は、まだ少し緊張の名残を抱えながらも、ここに来てよかったと思っている顔をしていた。
それで、十分だった。