※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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36話 自覚

 命視点

 

 

 

 その話を聞いてから、まだ何日も経っていない。

 

 それなのに、

 頭の中に浮かぶのは、隼人さんのことばかりだった。

 

 不思議だと思う。

 

 私はもともと、誰か一人のことをこんなふうに考え続ける性格ではない。

 必要以上に思い返すのは非効率だし、感情に引きずられるのも好まない。

 

 ……はずなのに。

 

 隼人さんが「務めを果たした」と知った、その瞬間から、

 何かが少しずつ、噛み合わなくなっている。

 

 胸の奥が、静かにざわつく。

 波立つほどではない。

 でも、完全に凪いでいるとも言えない。

 

 私はそれを、落ち着かなさだと解釈しようとした。

 

 希少な男子である隼人さんが、

 大人の女性と、正式なパートナーとして時間を過ごした。

 それは制度上も、社会的にも、何ひとつ問題のないこと。

 むしろ推奨されているものだ。

 

 なのに。

 

 夕食の席で、箸が止まる。

 

 理由は分かっている。

 でも、認めたくない。

 

 あの時の隼人さんの声。

 進んで過ごしたいと思えた、と言った時の表情。

 

 あれは、誇張でも照れ隠しでもなかった。

 

 淡々としていて、

 でも、迷いがなかった。

 

 ……ずるい。

 

 そう思ってしまった自分に、少し驚く。

 

 私が何をされたわけでもない。

 約束を破られたわけでも、裏切られたわけでもない。

 

 それなのに、

 まるで自分の知らない場所に、先に行かれてしまったような感覚が残る。

 

 私は、まだ何も決めていない。

 自分の気持ちが何なのかも、はっきりさせていない。

 

 なのに、「もう通り過ぎてしまったらどうしよう」という考えが、頭をよぎる。

 

 おかしい。

 

 気が付けば、

 隼人さんの姿を探している。

 

 廊下ですれ違う気配に、視線が動く。

 声が聞こえた気がして、足が止まる。

 

 こんなこと、今までなかった。

 

 私は湯呑みを両手で包み込み、深く息を吸う。

 

 落ち着こう。

 考えすぎだ。

 

 隼人さんは、何も変わっていない。

 私に対して、急に距離を詰めたわけでもない。

 

 それなのに──

 変わってしまったのは、私のほうだ。

 

 務めを果たした、という事実が、

 隼人さんを「遠い存在」にしたのではない。

 

 逆だ。

 

 急に、現実の人として、

 強く、はっきりと、意識してしまった。

 

 ……困る。

 

 私は、こういう気持ちに、名前をつけるのが苦手だ。

 

 好きかどうか。

 大切かどうか。

 

 どちらも、まだ断定できない。

 

 でも、かき乱されているのは、確かだった。

 

 この短い時間で、ここまで心を持っていかれる理由が、まだ分からない。

 

 分からないままなのが、一番、落ち着かない。

 

 私はそっと目を閉じる。

 

 評価でも、理屈でもなく。

 ただ、この胸のざわつきを、無理に押さえつけないことだけを決めた。

 

 ──逃げるわけではない。

 

 でも、まだ、追いかける準備もできていない。

 

 そんな中途半端な場所に立たされていることを、私は、ようやく自覚し始めていた。

 

 それからの時間は、妙に長く感じられた。

 

 勉強に集中しようとしても、文字が頭に入ってこない。

 ページをめくったはずなのに、同じ行を何度も読んでいる。

 

 私は小さく息を吐いて、机から離れた。

 

 落ち着かない。

 理由は分かっているのに、対処の仕方が分からない。

 

 隼人さんは、私に何もしていない。

 それなのに、私の内側だけが勝手に乱れている。

 

 ……ずるいのは、私のほうかもしれない。

 

 踏み込まれたわけでもないのに、期待されたわけでもないのに、勝手に心を動かして、勝手に困っている。

 

 廊下を歩く足音がして、思わず顔を上げる。

 

 一瞬、隼人さんかと思った。

 違ったと分かって、少しだけ肩の力が抜ける。

 

 ……ほっとしている。

 

 その事実が、胸に静かに刺さった。

 

 会いたいのか、会いたくないのか。

 どちらなのか、自分でも分からない。

 

 ただ、会ってしまったら、

 今のこの均衡が崩れてしまいそうな気がしている。

 

 私は窓の外を見る。

 

 校庭では、いつも通りの風景が広がっている。

 誰かが笑って、誰かが走って、時間は何事もなく流れている。

 

 世界は、何も変わっていない。

 

 変わったのは、私だけだ。

 

 隼人さんが誰と過ごしたか。

 どんな時間を選んだか。

 

 それは、本来なら私が踏み込む領域ではない。

 

 そう、分かっている。

 

 分かっているのに、あの人の「進んで選んだ」という言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

 

 進んで。

 

 その言葉は、責務よりもずっと重く聞こえた。

 

 私は、自分に問いかける。

 

 もし。

 もし、私が隼人さんに誘われたら。

 

 断るだろうか。

 

 ……たぶん、断らない。

 

 そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 

 それは判断でも、覚悟でもない。

 ただの事実。

 

 私はこれまで、自分が男性に弱いとは思っていなかった。

 ただ、そういう家系だと聞かされただけだ。

 

 御堂家は代々、男に弱い。

 母がそう言っていた。

 

 でも。

 気をつければいい。

 距離を保てばいい。

 理屈で整理していれば、問題は起きない。

 

 そう思っていた。

 

 ……思っていただけだったのだと、今になって気づく。

 

 隼人さんのことを考えた瞬間、胸がざわついた。

 

 理由もなく。

 説明もできず。

 

 それを、感情だと認める前に、

 私は「状況」や「責務」や「評価」に置き換えようとした。

 

 でも、それは逃げだった。

 

 自覚してしまったのだ。

 

 私は、誘われたら断れないのではなく、断ろうと考える前に、もう心が動いてしまうタイプなのだと。

 

 今まで、そんな場面がなかっただけ。

 揺さぶられる相手に、出会っていなかっただけ。

 

 隼人さんは、強く迫るわけでも、甘い言葉を並べるわけでもない。

 

 それなのに、距離を保たれたまま、こちらの内側だけを静かに揺らしてくる。

 

 ……危険だ。

 

 そう思うのに、嫌だとは思わない。

 

 むしろ、逃げなければいけないと分かっているのに、足が動かない感覚に近い。

 

 これが、

「男に弱い」ということなのかもしれない。

 

 誰かに言われて知るのではなく、自分の反応で、否応なく理解してしまう。

 

 私は、ゆっくりと息を吐く。

 

 今まで、

 自分は冷静で、感情に振り回されない人間だと思っていた。

 

 それは、間違いではなかった。

 

 ただ──

 前提が、崩れただけだ。

 

 理屈で整理する前に、心が先に動いてしまう相手が、存在してしまった。

 

 それだけのこと。

 

 けれど、その「だけ」が、私にとっては思った以上に重い。

 

 私は、まだ何も選んでいない。

 でも、もう安全な場所にも戻れない。

 

 自覚してしまった以上、知らなかった頃には、戻れない。

 

 ……困る。

 

 本当に、困る。

 

 それでも。

 

 このざわつきを、

 なかったことにはしたくないと思っている自分がいる。

 

 その事実が、

 一番、静かに、私を揺さぶっていた。

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