正直、俺は何もしていない。
通学も、授業も、昼休みも。
いつも通りで、特別なことは一つもない。
なのに──
なんとなく、空気が違う。
原因がはっきりしているわけじゃない。
ただ、命の様子が、少しだけおかしい。
視線が合いにくい。
合っても、すぐに逸れる。
前は、もう少し落ち着いていた気がする。
……気がする、程度だ。
俺が気にしすぎてるだけかもしれない。
そう思おうとすれば、思えるくらいの違い。
屋上でいつものメンツが集まっているときもそうだ。
恵は変わらず前に出るし、日和はのほほんしてるし、レン騒がしい。
命だけが、ほんの少し反応が遅い。
話題が俺に触れると、
一瞬、間が空く。
誰かが気づくほどじゃない。
でも、俺はなぜか引っかかる。
……なんだろうな、これ。
週末のことか。
遥香さんと出かけた話。
男として務めを果たしたしたってこと自体は、隠してるわけじゃない。
もちろん自慢でもないし、強調したいわけでもない。
理由は分からない。
でも今、ここで何か言ったら、空気が変わる気がする。
変える必要は、まだない。
廊下ですれ違うとき、命はちゃんと挨拶をする。
「……おはようございます、ハヤトさん」
声も姿勢も、いつも通り。
なのに、胸の奥で何かが引っかかる。
俺が何かしたわけじゃない。
した覚えもない。
それでも──
あれ、なんか。
いい感じ、か?
そんな手応えだけが、
はっきりしないまま、残っている。
考えるほどじゃない。
でも、無視するほどでもない。
放課後、昇降口で靴を履き替えているときだった。
帰る流れの中で、
命だけが、少し遅れる。
理由は分からないけど、
目に入った。
「命」
呼ぶと、
命は一拍置いてから振り返る。
「……はい、隼人さん」
「このあと、時間ある?」
いつも通りの聞き方。
命は少し考えて、
控えめに頷いた。
「……少しでしたら」
「じゃあ、校門まで」
歩き出す。
命は半歩横。
距離は近すぎず、遠すぎず。
しばらく黙って歩いてから、
俺は思い出したように言う。
「この辺、新しい店できたの知ってる?」
命が、首を傾げる。
「……いいえ」
「駅前。ケーキを出すカフェなんだけど」
それだけで、
命の歩幅が、ほんの少しだけ揃う。
「……そうなのですか」
「日曜日、行ってみようぜ」
軽く聞いてみる。
命は、その場で止まりかけて、
慌てて歩き直す。
「……日曜、ですか」
「うん。だめか?」
命は視線を落としたまま、
数歩、黙って歩く。
それから、小さく息を吸って。
「いえ……大丈夫です」
どうやら良いらしい
「じゃあ、連絡先教えて」
「……はい」
さりげなく連絡先を手に入れる
校門が見えてくる。
命は、少し考え込んだまま歩いて、
別れ際に立ち止まる。
「……ハヤトさん」
「何」
「……ありがとうございます」
「別に」
そう返すと、
命は一瞬だけ困ったように笑った。
「……はい」
頭を下げて、去っていく。
☆
家のドアを開けた瞬間、黒い塊が突っ込んできた。
「っと……こひな」
黒柴のこひなが、尻尾をぶんぶん振りながら脚に体当たりしてくる。
少し遅れて、廊下の向こうから三毛猫のココが、いかにも興味なさそうな顔で歩いてきた。
「はいはい、分かってる」
頭を撫でると、こひなは満足そうに喉を鳴らす。
ココは近くまで来て、俺の鞄を一瞥したあと、ぷいっと向きを変えた。
……いつも通りだ。
なのに、
胸の奥は落ち着かない。
リビングに入ると、キッチンから母さんの声がした。
今日は早かったみたいだ。
「おかえり、隼人」
母・沙織は、やけに機嫌がよさそうだった。
鼻歌まじりで、鍋をかき混ぜている。
「今日は、なんかいい顔してるじゃない」
そう言われて、俺は一瞬言葉に詰まる。
いい顔?
そんなつもりはない。
「……そうか?」
「そうよ。分かるの」
母さんは振り返って、にやっと笑う。
「何かあった?」
俺は靴下を脱ぎながら、少し考える。
考えてから、正直に言った。
「……デートの約束した」
「デート?」
母さんはあきれていた
「相変わらずあんたもやるわね。あれだけしておいて、まだ他の女に手を出そうとしてるなんて」
「俺は女性を愛しているんだよ。もちろん母さんもね」
「わかってるわよ。毎日ベットで確かめてるじゃない」
「それで?」
母さんは聞いてくる。
「相手は誰?」
「御堂命」
名前を出した瞬間、
期待で胸が、少しだけ跳ねた。
「……命? 御堂?」
鍋をかき混ぜていた手が、止まる。
「もしかして、あの御堂家の?」
「そう」
俺がそう答えると、
母さんは短く息を吸った。
「へえ……」
驚いた顔をしたのは、ほんの一瞬。
すぐに、いつもの柔らかい表情に戻る。
「隼人、すごいところに声かけたわね」
「まぁもともと名家の子との結婚を狙ってはいたんだけど。命は名家じゃなかったとしてもアタックしていたと思う」
「そんなに良い子なの?」
「かなりの美少女だよ」
「面食いなのは相変わらずなのね」
そう言って母さんは笑って、また鍋に向き直る。
「まぁでも、相手がどんな家でも、隼人が約束したってことの方が大事でしょ」
……まあ、そうだ。
名家だとか、家柄だとか、
そういうのは後からついてくる話だ。
「驚いたけどね」
母さんは、楽しそうに付け足す。
「御堂家のご令嬢と、うちの息子がデートの約束なんて」
「必ず口説き落としてみせるよ」
「はいはい」
軽く流される。
ソファに座ると、
こひなが隣に丸くなり、
ココが背もたれに跳び乗った。
名家御堂。
そう言われて、少しだけ現実味が増す。
でも、
俺が思い出しているのは、
肩書きじゃない。
視線を逸らした横顔と、
返事までの、あの一拍。
……やっぱり、効いてる、よな?