命視点
朝食の席で 私は言った。
「今日は 午後から出かけてきます」
母が顔を上げる。
「誰と?」
一瞬 迷った。
けれど ここで濁すのは。
自分が逃げることになると思った。
「……クラスの男子とです」
空気が 少しだけ変わる。
「駅前のカフェに 行く予定です」
言い切った。
胸の奥が 落ち着かない。
姉が すぐに笑った。
「へえ 命が男子と?」
私は 否定しなかった。
母は 驚いた様子を見せない。
ただ 私を見て 聞く。
「どんな子なの?」
「正直よくわかりません、ただ不思議な男性です」
「そう」
それだけだった。
祖母が 湯のみを置く。
音は 小さいのに。
なぜか はっきり聞こえた。
「命」
名前を呼ばれて。
背筋が伸びる。
祖母は、私を見て、ふっと笑った。
「そんな顔してるってことは、まだ整理できてないんでしょ」
からかうようで、でも、目は真剣だった。
私は、何も言えなかった。
祖母は、肘をついて、楽しそうに続ける。
「だったら」
一拍、置いてから。
「その男の子に、今の気持ち、そのまま言ってみなさい」
胸が、どくりと鳴る。
「格好つけなくていいし、答えも、もらわなくていいから」
湯のみを指で回しながら、軽い調子で。
「混乱してるなら、混乱してるって、言えばいいのよ」
私は、思わず祖母を見る。
祖母は、余裕のある笑みを浮かべたまま。
「話すとね、案外、勝手に整ってくるものなの」
逃げ道を塞ぐ言い方じゃない。
けれど、背中は、確かに押された。
私は、小さく息を吸って、頷いた。
「……分かりました」
本当は、分かっていない。
それでも。
駅前のカフェで、隼人さんと向かい合う自分が、頭から離れなかった。
胸の奥が、落ち着かないまま、ほんのりと熱を帯びる。
家を出る時、母が何も言わなかったのが、逆に重かった。
玄関で靴を履きながら、祖母の言葉が、何度も頭をよぎる。
今の気持ちを、そのまま。
そんなこと、簡単に言われても、と思う。
けれど、今日は、それをしに行くのだと、自分に言い聞かせる。
駅までの道は、いつもと変わらない。
なのに、足取りだけが、少し落ち着かない。
電車の中で、窓に映る自分を見る。
表情は、いつも通りだと思う。
けれど、胸の奥だけが、静かに騒がしい。
駅前に着くと、甘い匂いが、風に混じっていた。
白い外壁の、小さなカフェ。
ガラス越しに、ケーキのショーケースが見える。
ここだ、と分かった瞬間、心臓が、ひとつ強く打った。
店の前で、立ち止まる。
まだ、約束の時間より、少し早い。
逃げようと思えば、今なら出来る。
そう考えてしまう自分に、苦笑する。
けれど。
ガラス越しに見えた、見慣れた横顔で、足が止まった。
ハヤトさんだった。
椅子に座って、スマートフォンを見ている。
ただ、それだけの光景なのに、胸が、少し軽くなる。
安心しているのだと、遅れて気づく。
ドアを開ける前に、深く息を吸う。
整理出来ていない。
答えも、出ていない。
それでも。
今日は、逃げずに、向かい合う。
そう決めて、ドアノブに手を掛けた。
ドアを開けると、控えめなベルの音が鳴った。
その音に、隼人さんが顔を上げる。
一瞬、目が合って、すぐに、いつものように口元が緩んだ。
「早かったな」
それだけ。
特別な言葉は、何もない。
なのに、その一言で、胸の緊張が、少しほどける。
「……ハヤトさんも」
自分の声が、思ったより落ち着いていて、ほっとする。
ハヤトさんは立ち上がり、さりげなく椅子を引いてくれた。
「どうぞ」
当たり前みたいな仕草。
けれど、その距離が、近い。
席に着くと、テーブル越しに、隼人さんが向かい合う。
それだけで、視線の置き場に、少し困る。
「ここ、落ち着くよな」
「……はい」
窓際で、外の光が柔らかい。
ショーケースの方から、甘い匂いが流れてくる。
メニューを開く指が、わずかに遅れる。
「どれにする?」
ハヤトさんが、先に聞いてきた。
「……まだ、決められていません」
「じゃあ、ゆっくりでいい」
急かさない声。
それが、余計に、心を揺らす。
祖母の言葉が、また浮かぶ。
今の気持ちを、そのまま。
私は、メニューから、顔を上げた。
ハヤトさんは、こちらを見ていなかった。
窓の外を眺めて、待っている。
その横顔を見ていると、胸の奥が、静かに熱を持つ。
この人の前でなら。
そんな考えが、ふと浮かんでしまう。
私は、小さく息を吸った。
「……ハヤトさん」
「ん?」
視線が、こちらに向く。
その瞬間、心臓が、少しだけ跳ねた。
ハヤトさんの視線が、私に向いたまま止まる。
急かすでもなく、探るでもなく、ただ待っている。
それが、少し怖くて、少しだけ、安心だった。
「……ケーキ、どれにしますか」
私が先に、話題を逃がすように言うと、
「そうだな」
ハヤトさんは、メニューを覗き込む。
「俺は、モンブランかな」
即答だった。
迷いがない。
その感じが、隼人さんらしいと思ってしまう。
「命は」
名前を呼ばれて、指先が、わずかに強張る。
「……ショートケーキに、します」
「王道だな」
そう言って、笑う。
それだけのやり取りなのに、胸の奥が、きゅっと鳴った。
店員さんを呼び、注文を済ませる。
少しの沈黙。
カップが置かれる音や、他の客の小さな話し声が、妙にはっきり聞こえる。
「緊張してる?」
唐突に、ハヤトさんが言った。
図星だった。
「……少しだけ」
正直に答えてしまった自分に、内心で驚く。
「そっか」
それ以上、追及しない。
けれど。
「俺は、結構、楽しみにしてたけどな」
軽い調子なのに、その言葉が、胸に残る。
楽しみ。
その言葉を、自分に向けられることに、慣れていない。
しばらくして、ケーキが運ばれてきた。
白い皿に、丁寧に盛られた苺のショートケーキ。
甘い匂いが、ふわりと立ち上る。
「……きれいですね」
「だな」
フォークを手に取る。
一口、口に運ぶと、思ったより、甘さが控えめだった。
「……おいしい」
思わず、そう言う。
「だろ」
隼人さんが、少しだけ、満足そうに頷いた。
その様子を見ていると、胸の奥が、また騒ぎ出す。
祖母の声が、頭の中で、静かに響く。
今の気持ちを、そのまま。
私は、フォークを置いた。
逃げないと、決めたはずだ。
「……ハヤトさん」
「ん」
視線が合う。
鼓動が、はっきり分かる。
「私」
言葉が、喉で、一瞬、詰まる。
けれど、目を逸らさなかった。
「今日は……その……」
うまく、続かない。
それでも。
「あなたと、こうして出かけていることが」
少し、間を置いて。
「思っていたより、ずっと……落ち着かなくて」
正直だった。
ハヤトさんは、黙って聞いている。
否定も、遮りもしない。
「……それが、どういう気持ちなのか」
自分でも、まだ、分からない。
「でも」
胸に、手を当てる。
「何も感じていない、わけでは、ありません」
少しだけ、間が空いた。
祖母の声が、また思い出される。
私は、ゆっくり息を吸った。
「……ひとつだけ」
ハヤトさんが、顔を上げる。
「ん?」
視線が合う。
胸が、また、軽く跳ねた。
「こうして、誘っていただいて」
言葉を選びながら、続ける。
「一緒に、過ごしていること」
少し、間を置いて。
「……嬉しい、です」
それだけだった。
大きな意味を持たせるつもりも、覚悟を示すつもりもない。
ただ、今の気持ち。
ありのまま。
ハヤトさんは、一瞬だけ、目を瞬かせてから、ふっと笑った。
「それ、言われると、誘った甲斐あるな」
軽い声。
でも、どこか、安心したような。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
言ってしまった後なのに、後悔はなかった。
むしろ、不思議と、落ち着いている。
私は、またフォークを持ち、ケーキを口に運ぶ。
甘さが、さっきより、少しだけ、優しく感じられた。
答えは、まだ出ていない。
でも。
嬉しいと、言えた。
それだけで、今日は、確かに、前に進んだのだと思えた。