校門をくぐった瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
朝の空気はまだ涼しくて、制服の中にこもる感じもない。
いつも通りの登校。
昨日、駅前で一緒にケーキを食べたことをふと思い出す。
昇降口で靴を履き替えて、校舎に入る。
そこで、前を歩く背中を見つけた。
御堂命。
気づいたのは、名前じゃなくて、歩き方だった。
少しだけ、迷いがない。
「……あ」
声をかける
「命」
俺が呼ぶと、命はぴたりと足を止めた。
振り返った顔は、少し驚いたみたいで、でもすぐに落ち着く。
「おはようございます、ハヤトさん」
距離を測るような間がない。
昨日までより、自然だ。
「おはよう」
並んで廊下を歩く。
肩が触れないくらいの距離。
命は、視線を前に向けたまま、歩調を合わせてくる。
無理に近づかないけど、離れもしない。
それが、やけに意識に残る。
「昨日は……」
命が、言いかけて、言葉を切った。
俺は、待つ。
急かさない。
「楽しかった、です」
小さな声。
でも、はっきりしている。
「そっか」
それ以上、言わない。
それで十分だと思った。
教室に着くと、レンがすぐにこっちを見る。
一瞬だけ、にやりと笑ったのが分かる。
授業が始まって、黒板を写しながら、ふと気づく。
昨日のことを、思い返している時間が、思ったより長い。
ケーキの味。
店の雰囲気。
命がフォークを持つ手。
別に、特別なことはしていない。
話しただけだ。
それなのに、頭の片隅から離れない。
休み時間、席を立ったとき、命と目が合った。
一瞬。
でも、逸らすのが遅れる。
それだけで、分かる。
距離は、確実に変わっている。
昨日から、まだ一日も経っていない。
この感じは、悪くない。
むしろ、少し、心地いい。
それに命を攻略しつつあるという証拠だろう。
俺は、そう思いながら、チャイムの音を聞いていた。
昼休みのチャイムが鳴ると、俺は弁当を持って屋上へ向かった。
ここは静かだ。
風はあるけど、人は少ない。
考え事をするにはちょうどいい。
フェンス際のベンチに腰を下ろして、弁当の蓋を開ける。
いつも通りの中身。
落ち着く。
「やっぱりここか」
聞き慣れた声に顔を上げると、レンが階段を上がってきたところだった。
「来ると思ったか」
「うん。ハヤト、昼はだいたい屋上だもん」
レンは俺の向かいに腰を下ろして、弁当を覗き込む。
「今日もちゃんとしてるね」
「弁当だぞ」
「だからだよ」
意味が分からない理屈で笑う。
「僕はあとで食べるからさ、ちょっと話し相手になって」
「なんだ?」
風が吹いて、フェンスが小さく鳴る。
「最近さ、忙しそうだなって思って」
「別に、追い込まれてるわけじゃない」
「それは分かる」
即答だった。
「ハヤトって、逃げる時はしっかり逃げそうだし、向き合う時はちゃんと向き合うもん」
妙に的確だ。
「だからさ」
少し間を置いてから、
「誰と一緒にいても、嫌な感じしないんだよね」
「それ、褒めてるのか」
「もちろん」
レンは笑う。
俺は弁当を食べ進めながら、少しだけ考える。
確かに、今はいろいろある。
命のことも、恵のことも。
でも、どれも投げ出す気はない。
レンが屋上を出ていってからも、俺はそのままベンチに腰を下ろしていた。
弁当は、まだ半分残っている。
急ぐ理由もない。
風に混じって、下の校庭のざわめきが微かに届く。
屋上は相変わらず静かだ。
箸を進めながら、さっきの会話を思い返す。
レンは、言葉を選ばない。
でも、見ていないわけでもない。
逃げていない。
向き合っている。
そんな評価を、あいつからもらうとは思わなかった。
弁当の端に残った卵焼きを口に入れた、その時だった。
屋上の扉が、きい、と音を立てて開く。
反射的に視線を向ける。
立っていたのは、恵だった。
日差しを背にして、こちらを見る。
姿勢は相変わらず真っ直ぐで、迷いがない。
「ここでしたのね」
恵は自然な足取りで近づいてきて、俺の向かい側ではなく、隣に腰を下ろした。
距離が近い。
わざとだ。
「お昼、邪魔でしたら下がりますけれど」
「いや、大丈夫だ」
「でしたら、問題ありませんわね」
即答だ。
俺は箸を動かしながら、横目で恵を見る。
恵との距離が近くなる。
「単刀直入に申し上げますわ」
前置きは、それだけ。
「私、最近ハヤト様と、きちんとお話しする機会が少ないと感じていますの」
責める調子じゃない。
でも、逃がさない言い方だ。
「そうか?」
「ええ」
即答。
「お顔を合わせれば挨拶はしますし、言葉も交わします。けれど、それだけですわ」
指摘は冷静だ。
感情的になっていない。
「私は、それが少し……物足りませんの」
はっきり言う。
遠慮がない。
俺は腕を組み、少しだけ考える。
「恵は、分かりやすいな」
「褒め言葉として受け取りますわ」
即返ってくる。
「私は、欲しいものを欲しいと言います。ハヤト様が嫌なら、ここで終わりですもの」
退路を残すようで、実際は自分が引く気はない。
「で、どうしたいんだ?」
俺がそう聞くと、恵は少しだけ微笑んだ。
「今日ではありませんわ」
焦らない。
「ですが、近いうちに。私と二人で、きちんと時間を取ってくださいませ」
「断りませんのよね?」
「さあな」
「ふふ」
それでも、恵は余裕を崩さない。
「では、楽しみにしておきますわ」
それだけ言って、恵はくるりと踵を返した。
背中がまっすぐだ。
迷いがない。
命とは違う。
だからこそ、強い。
何も探らず、何も測らず、
ただ、自分を差し出してくる。
正直、楽だ。
恵とは結婚するつもりはある。
ただし先に初恋に決着をつけてからだ。