家に戻ると、こひなが玄関まで駆けてきた。
尻尾をぶんぶん振って、勢いのまま足にぶつかってくる。
「ただいま」
頭を撫でると、今度はココが気まぐれに寄ってきて、足元を一周してから戻っていった。
いつもの帰宅風景。
鞄を置き、スマホを取り出す。
その時、ルネットに通知が一件入った。
遥香からだった。
画面を開く。
遥香
『検査、行ってきたよ……妊娠してた』
一瞬、息が止まる。
次の瞬間、胸の奥がじわっと熱くなった。
ああ、そうか。
本当に、来たんだな。
驚きより先に、嬉しさが来た。
思っていたよりも、ずっとはっきりと。
口元が、勝手に緩む。
隼人
『体調は?』
すぐに返す。
少しして、返信。
遥香
『今のところ大丈夫』
画面を見つめながら、迷わず打つ。
隼人
『俺は、嬉しいよ。元気な子供を産んでくれ』
送信してから、胸に手を当てる。
心臓が、いつもより少し早い。
『ありがとう。そう言ってもらえて、安心した』
その一文を読んで、はっきり思った。
ああ、これは責務とか制度とか、そういう話じゃない。
単純に、命が増えるという事実が、嬉しい。
未来が、少し具体的になった感じがする。
ソファに腰を下ろすと、ココが当たり前みたいに膝に乗ってきた。
こひなはその足元で丸くなる。
家の中は静かだ。
でも、俺の中は違う。
これから子供ができる。
家族が増えることを、素直に喜べている。
現実は、もう動き出している。
でもそれは、悪いことじゃない。
玄関の鍵が回る音がして、次にドアが開く。
「ただいまー」
母さんの声。
今日はだいぶ早かったな
買い物袋が擦れる音と、靴を脱ぐ気配。
「おかえり」
いつもより早く返したせいか、廊下から顔を出した沙織が少しだけ首を傾げた。
「あら、ハヤト。今日はもう帰ってたのね」
「ああ」
それだけ答えて、立ち上がる。
どう切り出すかは、もう決めていた。
沙織はキッチンに袋を置きながら、こちらを見る。
「どうしたの。何かあった?」
母親ってのは、こういうのが早い。
「遥香から、連絡があって」
沙織の手が止まる。
「うん」
一拍置く。
「妊娠してた」
一瞬、理解が追いついていない顔。
それから、ゆっくりと目が見開かれる。
「……え?」
次の瞬間、両手で口元を押さえた。
「……ちょっと、今……」
数秒、言葉が出ないまま固まってから。
「それって……」
「そうだ」
沙織は、ふっと息を吐いて、椅子に腰を下ろした。
「……はあ……」
そのまま、笑う。
驚きと、安堵と、どうしようもない喜びが混ざった笑い方だった。
「初孫……?」
「になるな」
そう答えた途端、沙織の目が潤む。
「……ほんとに?」
「検査も終わってる」
沙織は何度か瞬きをしてから、立ち上がって俺の前まで来た。
「……おめでとう」
そして、少し遅れて。
「ありがとう」
「なんで俺に」
「言いたいの」
きっぱり言ってから、声を少し落とす。
「ちゃんと向き合って、逃げずに、しかも嬉しそうな顔で報告してくれる息子を持てて、母親冥利に尽きるわ」
「……」
「遥香さん、大事にしなさいね」
「分かってる」
即答だった。
沙織は満足そうに頷いて、キッチンに向かいながら呟く。
「忙しくなるわね」
「まあな」
振り返って、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「でも、楽しみでもあるわ」
その背中を見ながら、胸の奥がじんわり温かくなる。
喜んでもらえた。
それだけで、十分だった。
家の中は、何も変わっていない。
けれど確かに、未来はもう、動き出していた。
☆
駅の改札を抜けたところで、遥香の姿が見えた。
人の流れから少し外れた場所で、スマホを片手に立っている。
仕事帰りだろう、きちんとした服装なのに、どこか落ち着かない様子だった。
近づくと、遥香が気づいて顔を上げる。
「ハヤト」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がすっと静かになる。
「待たせたか」
「ううん、今来たところ」
そう言って微笑むけど、目が少しだけ揺れているのが分かる。
俺は自然に距離を詰めた。
「体調は」
聞くと、遥香は一瞬驚いた顔をしてから、苦笑する。
「もう、そういう顔してる」
「してるか」
「してる」
でも、嫌そうじゃない。
「大丈夫よ。まだ初期だし、少しだるいくらい」
「無理はするな」
「はいはい」
軽い返事。
けれど、その後で、少しだけ真面な声になる。
「……来てくれて、ありがとう」
「当たり前だろ」
言い切ると、遥香は一瞬言葉に詰まったように視線を逸らした。
歩き出す。
並んで歩くのは、旅館以来だ。
「正直ね」
遥香がぽつりと言う。
「連絡、送る時、少し怖かった」
「何が」
「ハヤトがどう思うか」
俺は歩きながら、肩をすくめる。
「どうもこうもない」
遥香を見る。
「嬉しかった」
それだけ。
遥香が足を止める。
「……ほんと?」
「ああ」
立ち止まって、向き合う。
「俺は、やることやったし、責任も取る。それに」
一瞬、言葉を選ぶ。
「遥香と一緒に作った結果だ。嫌なわけない」
遥香の目が、少し潤む。
「……ずるい」
「何が」
「そんな言い方されたら、安心するに決まってるでしょ」
遥香は小さく笑って、深く息を吐いた。
「ちゃんと、パートナーなんだなって思えた」
「今さらか」
「今さらよ」
それでも、遥香の表情は柔らかい。
再び歩き出す。
今度は、遥香の歩幅が、ほんの少しだけ俺に寄った。
俺は横にいる遥香を一度だけ見てから、前を向く。
間違いなく俺は今幸せだ。