昼下がりの北浜市は、休日らしいゆるい空気に満ちていた。
俺は一人で街を歩いていた。
特に目的があるわけじゃない。
ただ、家にこもっているより、外の空気を吸いたかった。
男子が一人で歩いているだけで、
周囲の視線が自然と集まる。
それは分かってる。
けど、気にしない。
慣れてるし、気にしても仕方ない。
「……さて、どこまで歩くか」
独り言を漏らしながら商店街のアーケードを抜ける。
焼きたてのパンの匂い、コーヒーの香り、
休日のざわめきが混ざって心地いい。
女子たちの視線が刺さる。
“あの男子、誰? ”
“嘘! モデル? ”
そんな空気が伝わってくる。
分かってる。
でも、反応しない。
「……腹減ったな」
そう呟いて足を止めた。
視線の先には古い喫茶店。
落ち着いた外観で、年季があるのに品がある。
「入ってみるか」
そう思った、その瞬間だった。
アーケードの向こうから、ゆっくりと歩いてくる一人の和服の女性が目に入った。
俺の足が、自然に止まる。
──綺麗だ。
理屈じゃなく、感覚でそう思った。
肩にかかる艶のある髪。
無駄のない歩き方。
シンプルなのに品のある服装。
年齢は……分からない。
若作りじゃない。
むしろ自然体で、完成されている。
30代後半だろうか。
でも、纏っている空気はもっと深い。
胸の奥が、軽く跳ねた。
「……」
自分でも驚くほど、視線が離れない。
女性が近づいてくる。
すれ違う、その瞬間。
ふわりと香る、大人の香り。
そして──
彼女も俺に気づいた。
一瞬だけ、目が合う。
その瞳は静かで、深くて、“経験”を感じさせるのに、俺を見た瞬間、わずかに揺れた。
ほんの一瞬の乱れ。
大人の女性が、予想外の相手に出会ったときだけ見せる揺れ。
その揺れが消える前に──
「……っ」
彼女の足元が、わずかにもつれた。
段差も障害物もない。
ただ、俺を見たせいで歩幅が乱れたんだと分かった。
反射的に手が伸びる。
「危ない」
腕を掴む。
その身体が、ふわりと俺の胸元に寄った。
大人の女性の体温が、思ったよりも近い。
彼女は、驚いたように息を呑んだ。
「……っ、ごめんなさい。こんな……年甲斐もなく、つまずくなんて」
声は落ち着いているのに、その指先はわずかに震えていた。
俺は手を離さない。
強くじゃなく、自然に支える。
「大丈夫ですか」
お姉さんは、俺の手元を見つめたまま、ほんの一拍、返事が遅れた。
「……ええ。でも……あなたに触れられると……少し、驚くわね」
その言い方は、“想定外の男”に触れられたときの反応そのものだった。
俺は静かに言う。
「驚かせたなら、すみません」
お姉は首を横に振る。
「違うの。驚いたのは……あなたが、あまりにも自然だったからよ」
その言葉に、俺は目を細めた。
お姉さんは気づいていない。
自分が今、どれだけ“揺れている”か。
そして──
俺は確信する。
この人は、俺が動けば揺れる。
お姉さんの瞳が揺れた、その直後だった。
「……っ」
小さな息が漏れ、彼女の身体がふらりと傾いた。
足元を軽くひねったんだと、見た瞬間に分かった。
反射的に手が伸びる。
腕を支え、倒れる前に受け止めた。
「大丈夫ですか」
声は落ち着いているのに、
お姉さんの指先はわずかに震えていた。
「……ごめんなさい。少し、足を……ひねってしまったみたい」
痛みをこらえるように眉を寄せる。
その表情が綺麗で、俺は一瞬だけ息を呑んだ。
「歩けます?」
「……ええ、たぶん……」
言い終える前に、口が勝手に動いた。
「ベンチまで行きましょう。手、貸します」
拒否の余地を与える気はなかった。
でも強引じゃない。
“そうするのが当然”っていう自然さ。
お姉さんは一瞬だけ迷って、
それから静かに俺の手を取った。
「……ありがとう。坊や、こういう時……迷わないのね」
「迷ってたら、転んでましたよ」
軽く笑いながら支える。
距離が近い。
大人の女性の体温が、思ったよりも柔らかい。
ベンチに腰を下ろしたお姉さんは、
足首にそっと手を添えながら息を整えた。
「……情けないわね。こんな歳で、若い子に助けられるなんて」
俺は静かに首を振る。
「歳なんて関係ないですよ」
お姉さんが驚いたように俺を見る。
その視線を、俺は逸らさない。
「俺は……あなたを見た時から、綺麗だと思ってました」
お姉さんの呼吸が、一瞬止まった。
「……っ、坊や……」
言葉は淡々としてるのに、
自分でも分かるくらい、目だけは真っ直ぐだった。
お姉さんは視線をそらし、
胸の前でそっと手を重ねる。
「……そんなふうに言われるなんて……久しぶりだわ。困ってしまうのよ……大人の女は」
俺は少しだけ笑った。
「言いたいことを言ってしまう性分でして」
お姉さんの肩が、わずかに震えた。
「……あなた、本当に……危ない子ね」
その声は、叱るでもなく、拒むでもなく。
ただ、揺れていた。
その揺れが、俺の中の何かを強く刺激した。
……今なら、踏み込める。
そう思った。
俺はベンチに座るお姉さんの横に、少しだけ距離を詰めて腰を下ろした。
逃げ道を塞ぐほど近くはない。
でも、意識せざるを得ない距離。
「お姉さん」
呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げた。
「……なあに、坊や」
“坊や”か、俺を子ども扱いしている。だがあきらめない
俺はそのまま、まっすぐ言った。
「俺、最初に見た時から……あなたに惹かれてました」
お姉さんの指先が、ぴくりと動いた。
「……坊や、そういうことは……軽く言うものじゃないのよ」
「軽くなんか言ってません」
即答した。
自分でも驚くほど迷いがなかった。
「あなたが綺麗だと思った。歩き方も、声も、目も……全部、俺には刺さったんです」
お姉さんは息を呑んだ。
その胸の上下が、ほんの少しだけ速くなる。
「……坊や、困らせないで。大人の女はね、そんなふうに言われると……」
「揺れるんですか」
お姉さんの瞳が、大きく揺れた。
図星だった。
「俺、分かりますよ。あなたが俺を見た時……一瞬だけ、目が揺れたの」
「……っ」
「俺の手を取った時も、震えてた」
「……坊や……」
「嫌じゃなかったんですよね」
沈黙。
でも、その沈黙が答えだった。
俺はさらに一歩だけ踏み込む。
「俺、あなたを困らせたいわけじゃない。ただ……惹かれた相手には、ちゃんと伝えたいだけです」
お姉さんは視線をそらし、
胸の前でそっと手を重ねた。
「……坊やは……本当に……危ないのね」
「そうですか?」
「ええ……大人の女が、こんなに動揺するなんて……久しぶりよ」
その声は震えていた。
でも、拒絶の震えじゃない。
俺は静かに言った。
「じゃあ……もっと揺らしてもいいですか」
お姉さんの肩が、はっきりと震えた。
「……坊や……ほんとうに……だめな子ね……」
その言葉は、
叱っているようで、
拒んでいるようで、
でも──
完全に落ちかけていた。