お姉さんは、俺の言葉を受け止めきれないように、
視線をそらして胸の前で手を重ねた。
和服の袖が揺れて、
その仕草が妙に色っぽい。
「……坊や。私はね……五十五歳よ」
いや全然見えない。
それに俺は見た目さえよければ年齢は関係無い派だ。
だから俺は、迷わず言った。
「関係ないですよ。俺は……お姉さんを綺麗だと思っただけです」
お姉さんの肩が、はっきりと震えた。
「……坊や……そんなふうに言われても……私は……おばあちゃんよ。子供もたくさんいるし、子供ももう産めないわ。だから、あなたとは……」
「関係ないです」
遮った。
優しく、でも逃がさないように。
「歳も、立場も、何も。俺は……惹かれた相手に、惹かれたって言ってるだけです」
お姉さんは、息を呑んだ。
和服の裾がわずかに揺れて、
足首をかばうように姿勢を変える。
「……坊や……だめよ……そんな真っ直ぐに見つめられたら……」
「お姉さんが綺麗だから、見てるだけです」
「……っ」
「お姉さんの事一目惚れでした」
お姉さんは、俺の顔を見られなくなった。
視線が泳ぎ、指先が震え、
大人の余裕が少しずつ崩れていく。
「……坊や……本当に……危ない子……」
「危なくてもいいですよ。それでお姉さんのこと口説き落とせるのなら」
その瞬間、
お姉さんの呼吸が止まった。
完全に、落ちた。
「……坊や……そんなふうに言われたら……私……どうしたらいいのか……分からなくなるわ……」
声が震えていた。
拒絶じゃない。
迷いでもない。
惹かれてしまった大人の女の声だった。
俺はゆっくりと、
逃げ道を塞がない距離で、
でも確実に届く声で言った。
「分からなくていいですよ。俺が……ちゃんと伝えますから」
お姉さんは、和服の袖で口元を隠しながら、
小さく、小さく呟いた。
「……坊や……あなたに……落ちてしまいそうで……怖いのよ……」
俺は静かに答えた。
「落ちていいですよ。俺が受け止めますから」
お姉さんの瞳が、
完全に俺に向いた。
揺れたまま、逃げられないまま、
でも確かに惹かれている目だった。
しばらく、どちらも言葉を失っていた。
人通りのあるアーケードの中なのに、
このベンチの周りだけ、時間が少し遅く流れているみたいだった。
先に視線を外したのは、お姉さんだった。
和服の袖を整え、ゆっくりと息を吐く。
「……坊や。あなた、名前は?」
その問いは、
距離を詰めるためでも、探るためでもない。
ただ、今ここにいる相手を、ちゃんと呼ぶための声だった。
「ハヤトです」
短く答える。
それだけで十分だと、俺は思った。
お姉さんは、その名前を一度だけ、心の中で確かめるように繰り返した。
「……ハヤト」
それから、ふっと微笑む。
呼ばれた声は、低くて、静かで、
それなのに、はっきり揺れていた。
「あなたは……こういうふうに言われ慣れているのでしょう」
「どうでしょうね」
正直に返す。
「でも……今日は、俺も初めてです」
お姉さんは、小さく息を吸った。
それだけで、胸の内が忙しく動いているのが分かる。
「……私はね」
言いかけて、少しだけ間を置く。
「年齢も、立場も、状況も……全部、分かっているつもりなの」
理屈を並べる声。
でも、それはもう“自分に言い聞かせるため”のものだった。
「だから……こんなふうに、胸が騒ぐこと自体が……おかしいって、思うのよ」
袖の中で、指が強く組まれる。
「でも……」
そこから先は、
理屈が追いつかなかった。
「あなたを見てから……ずっと、頭の中が静かにならないの」
やっと、こちらを向く。
その瞳は、揺れているけど、もう隠していなかった。
「声を聞くだけで……近くにいるだけで……心が、勝手に反応してしまう」
小さく、苦笑する。
「……本当に、困ったわ。こんな感覚……ずいぶん久しぶり」
俺は、急がなかった。
ただ、同じベンチに座ったまま、言う。
「無理に整理しなくていいと思います」
「……え?」
「好きだとか、だめだとか……今、決めなくていい」
お姉さんは、少し驚いた顔をした。
「……坊やは……ずいぶん、余裕があるのね」
「余裕じゃないです」
正直に。
「ただ……お姉さんが今、揺れてるのは分かるから」
お姉さんの呼吸が、わずかに乱れた。
「……そんなふうに、分かった顔をされると……余計に……」
言葉が途切れる。
代わりに、ぽつりと零れた。
「……私……もう、あなたに惹かれているのね」
認めてしまった声だった。
逃げ場を探す声じゃない。
否定もしない。
ただ、事実を受け入れた声。
「……怖いわ」
小さく、でもはっきりと。
「この歳で……こんなふうに、心を持っていかれるなんて……」
俺は、ベンチに座ったまま、
少しだけ体の向きを変えた。
近すぎない。
でも、ちゃんと届く距離。
「怖くてもいいと思います」
お姉さんが、こちらを見る。
「……それでも?」
「はい」
迷いなく。
「惹かれたって気持ちは……嘘じゃないでしょ」
沈黙。
そして、
お姉さんは、ゆっくりとうなずいた。
「……ええ」
小さく、でも確かに。
「……私は……完全に、恋に落ちてしまったわ」
そう言ってから、
少し照れたように、視線を落とす。
「……坊や……あなた、本当に……罪な子ね」
俺は、肩をすくめた。
「そう言われるの、慣れてないです」
お姉さんは、くすっと笑った。
その笑顔は、さっきまでの動揺とは違っていた。
もう、受け入れた人の顔だった。
「……今日は……このまま、少しだけ……一緒に座っていましょうか」
「いいですね」
しばらく、並んでベンチに座ったまま黙っていた。
先に口を開いたのは、お姉さんだった。
「……そういえば、あなた、私の名前、聞かないの?」
俺は横を見る。
「そうでした教えてください」
少し間があって、静かに言った。
「……澄乃よ」
「澄乃さん」
呼んだ瞬間、彼女の指先がきゅっと動いた。
「……その呼び方、反則ね」
「嫌ですか」
「いいえ」
即答だった。
「むしろ……嬉しい」
そう答えると、お姉さんは、そっと息を吐いた。
気づけば、時間がゆっくり流れていた。
ベンチの上で、恋に落ちたまま、時間が続いていった。
命より先に祖母を攻略してしまったハヤトでした。