スターターの合図が響く。
一瞬、空気が張り詰めた。
「位置について……よーい」
視線が集まるのは分かっている。
男子が少ない、って理由だけじゃない。
俺は深く考えない。
ただ、前を見る。
「ドン!」
音と同時に、身体が動いた。
自分でも分かるくらい、脚が軽い。
地面を蹴る感覚がはっきりしていて、
風を切る音が耳元を抜けていく。
周囲の気配が、少し遅れて感じられる。
半分を過ぎたあたりで、もう差はついていた。
ゴールテープが近づく。
腕を振り、最後まで減速せずに駆け抜ける。
「──ゴール!」
笛の音。
そのまま数歩進んで、ようやく足を止めた。
息を整えて振り返ると、
少し遅れて他の走者がゴールしてくる。
周囲がざわついた。
「やっぱり速い……」
「え、あれ本気?」
「男子って、あんなに……」
聞こえてくる声を、特に気にしない。
タオルを受け取って、首にかけたところで、
横から声が飛んできた。
「やっぱりハヤト、速いね」
レンだった。
少し興奮した顔で、でもどこか誇らしそうに言う。
「まあ、走っただけだよ」
「それがもう違うんだって」
レンは笑いながら肩をすくめる。
「僕さ、一緒に走ってて分かったもん。ハヤト、加速の仕方が普通じゃないよ」
「大げさだろ」
「大げさじゃないって」
そう言い切ってから、少しだけ声を落とした。
「……でも、変に気取らないところがさ、余計にずるいよね」
俺は苦笑する。
「気取る理由もないし」
「そこだよ」
レンは小さく笑って、
グラウンドの向こうを見た。
「でもさ、今日の運動会、ハヤトがいるだけでなんか締まってる感じする」
「知らないうちに役割押し付けられてるな」
「まあ、そういう星の下ってことで」
冗談めかして言いながら、
レンはもう一度だけ、俺を見た。
「……かっこよかったよ」
その一言は、軽いけど、まっすぐだった。
俺はタオルで汗を拭きながら、
小さく息を吐いた。
ふと、観覧席の方を見た。
人は多い。
カメラを構える親。
名前を呼んで手を振る母親。
……分かってたことだ。
今日は母さん、仕事で来られない。
朝も言ってた。
「ごめんね、今日はどうしても外せなくて」って。
別に責める気はない。
本当に忙しいのも知ってる。
でも。
ゴールした瞬間、
誰かが一番にこっちを見る光景を、
ほんの少しだけ、想像してしまっていた。
「……」
胸の奥で、小さく何かが引っかかる。
「ハヤト?」
レンが、不思議そうに覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「いや……」
言いかけて、やめた。
でも、レンは察したらしい。
「ああ……そっか」
短く、でも分かったように言う。
「お母さん、今日は……」
「仕事」
「……そっか」
レンはそれ以上聞かない
午前の部が終わり昼休みに入る。
ふと母親と並んで弁当を広げている生徒が目に入る。
「悩んでも仕方がない一人で食うか」
「あら、ハヤト様一人なんですの?」
声をかけられて振り向くと、恵が立っていた。
競技用の体操服の上から、薄手の上着を羽織っている。
「まあな」
「そう」
それだけで事情を察したように、余計なことは聞かない。
恵は少しだけ視線をずらし、
並んでいる一角を指先で示した。
そこには、明らかに“場違いなくらい整った”昼食スペースがあった。
重箱。
彩りのいい料理。
敷物も、周囲より一段上質だと分かる。
そして、その隣に立つ女性。
背筋が伸びていて、髪もきれいに整えられている。
派手ではないが、年齢を感じさせない落ち着きと艶。
何よりも品を感じる。
一目で分かる、きれいなお母さんだった。
つい一瞬この女性と過ごす夜はどんな表情をするのだろうと考えてしまった。
「よろしければ、一緒にいかが?」
恵は穏やかに言う。
「お母様が、“せっかくですもの”と」
断る理由がない。
というより、恵は最初から断られない前提で話している。
「……いいのか」
「ええ。運動会ですもの」
並んで歩く。
視線が、自然と集まる。
豪華な食事。
整った空気。
そして、恵の母親が、こちらに気づいて微笑んだ。
「初めまして」
落ち着いた声。
「娘と仲良くしてくれているそうね」
恵は特に説明しない。
隣に立つだけで十分だと分かっている。
ハヤトが挨拶を返すと、
母親は一瞬だけ、じっとこちらを見た。
評価するようでもなく、値踏みするでもなく。
ただ、納得したように微笑む。
「……なるほど」
それだけ。
昼食が始まる。
料理はどれも手が込んでいて、量も十分。
でも、恵は特別扱いをしない。
「好きなものからどうぞ」
それだけ。
「それじゃあ……いただきます」
俺は自分の弁当も広げ、一緒に食べ始める
周囲の視線も、ざわめきも、
ここでは関係ない。
恵はいつも通り、余裕があって、静かで、堂々としていた。
そしてハヤトは思う。
──こういう強さも、あるんだな。
運動会は、そのまま何事もなく進んでいく。
でもこの昼食の時間だけは、
はっきりと“印象に残る時間”になっていた。
恵は、そっとナプキンで口元を押さえたあと、静かに立ち上がった。
「少し、失礼しますね」
それだけ言って、視線を合わせることなく一礼する。
足取りは落ち着いていて、慌てた様子はない。
椅子の音が小さく鳴り、
恵はそのまま人の流れの向こうへ消えていった。
どうやらトイレのようだ
恵のお母さんが、お茶を注ぎながらふっと微笑んだ。
「……運動会というのは、不思議なものですね」
視線は料理に向けたまま。
「その方が、どう人と向き合っているのかが……自然と見えてくる」
「恵は、昔から前に出る子でした」
少し声を落とす
「ただ……自分で選んだ相手に対しては、思いのほか誠実なのです」
俺を見る。
探るでも、試すでもない、穏やかな視線。
「ですから……」
ほんの少し、間を置いて。
「将来のこととして、パートナーという形も……あってよろしいのではと」
「もちろん」
すぐに続ける。
「今この場で答えを求める話ではありませんけれど」
騒がしい校庭の音が、遠くなる。
俺は、すぐには答えない。
けれど、曖昧にも逃げない。
「否定はしません」
それだけで、恵のお母さんの目が、わずかに和らいだ。
「将来的には……考えています」
言葉を選びながら。
「恵は魅力的ですし、一緒にいると、自然と前を向ける」
恵が、ほんの一瞬だけこちらを見る。
すぐに視線を戻すが、耳元がかすかに赤い。
「でも今、どうしても好きな人がいて、その人との関係がどう転ぶか分かるまで返事ができません」
俺は続ける。
恵のお母さんは、ゆっくりと頷いた。
「……そう」
それだけ。
「そのお言葉で、十分です」
それ以上は踏み込まない。
「昼ごはんごちそうさまでした、とても美味しかったです」
「こちらこそ」
恵のお母さんは、箸を揃えながら穏やかに微笑んだ。
「若い方にそう言っていただけると、作った甲斐がありますわ」
声は控えめで、どこか肩の力が抜けている。
「今日は外ですから、簡単なものばかりですけれど」
そう前置きしてから、
「……美味しい、と思ってくださったなら、それで十分です」
視線を伏せ気味にお茶を一口。
「それでは失礼します」
「ええ午後も頑張ってね」