運動会が終わった、という実感が湧くまでには、少し時間がかかった。
グラウンドに残るのは、競技の熱じゃなくて、片付けのざわめきだ。
テントを畳む音、カラーコーンを集める足音、あちこちから飛ぶ「お疲れさま」の声。
さっきまでの歓声が、嘘みたいに地面に落ち着いていく。
俺は腕まくりをして、クラスの備品を運んでいた。
汗はまだ引いていない。
シャツが背中に張りつく感覚が、今日一日ちゃんと動いた証拠みたいで、悪くなかった。
「ハヤト、そっち持てる?」
レンが声をかけてくる。
長机の片側を掴みながら、いつもより少し疲れた顔をしていた。
「余裕だろ」
そう言って持ち上げると、レンが苦笑する。
「ほんと、最後まで元気だよな」
「運動会だし」
この体は女性と何戦もできるほど元気であふれているのだ。
日和は日和で、道具袋を抱えながら周囲を見回している。
途中で誰かに声をかけられては、丁寧に頭を下げて、また戻ってくる。
ああいうところは、変わらない。
グラウンドの端では、他クラスも同じように片付けをしていて、
恵の姿もちらっと見えた。
遠目でも分かる。
姿勢がいい。
動きに無駄がない。
それでいて、周囲に自然と人が集まっている。
昼のことが、ふっと頭をよぎる。
豪華な弁当と、品のある女性と、落ち着いた空気。
でも、思い返しても、胸がざわつく感じはなかった。
楽しかった。
それだけだ。
「ハヤト、これ倉庫だよな」
「ああ、奥でいい」
会話はそれだけで足りる。
運ぶ、置く、戻る。
繰り返しの中で、体が少しずつ軽くなっていく。
全部が終わった頃には、グラウンドはほとんど元の姿に戻っていた。
踏み固められた土だけが、今日の名残を残している。
「じゃあ、解散だな」
「お疲れ」
誰かが言って、誰かが手を振る。
それぞれの帰り道へ、自然に散っていく。
一度だけ空を見上げる。
今日は運動会日和だったな、と思う。
放課後の校舎は、片付けの音が遠くに残るだけで、だいぶ静かになっていた。
俺は廊下を歩きながら、次に何をするでもなく考えていた。
「……隼人さん」
後ろから呼ばれて、振り返る。
命が立っていた。
さっきより少し近い気もするけど、気のせいかもしれない。
「どうした?」
「帰り……駅まで同じでしたよね」
確認するだけの言い方。
「そうだな」
特別なことはない。
歩く速さも、間隔も、自然なまま。
「今日は、疲れましたね」
「まあな」
「でも……終わってみると、あっという間でした」
会話はそれだけ。
運動会の感想とも言えない、薄い内容。
でも、沈黙が気まずくない。
命は前を見て歩いている。
俺を見ることはほとんどないけど、離れようともしない。
「……隼人さん」
「ん?」
「さっき、皆さんに囲まれてましたね」
「そうだった?」
「……はい」
命は少しだけ間を置いてから、続けた。
「見ていて……胸が、ざわつきました」
おっと? これは脈ありか?
「ざわつく?」
「理由は、分かりません」
命はそう言ってから、ほんの少しだけ視線を伏せる。
「ただ……ああいうふうに、皆さんが近くにいるのを見ていると」
一拍。
「落ち着かなくなりました」
それだけ言って、また前を見る。
表情は変わらない。
声も静かなまま。
でも、その言葉だけが、やけに真っ直ぐだった。
隣の命が、ほんのわずかに歩調を落とす。
立ち止まるほどじゃない。
でも、自然に出るには微妙な遅さ。
「……隼人さん」
呼ばれる。
「どうした?」
一拍。
「……少しだけ、寄り道してもいいですか」
理由は言わない。
表情も変わらない。
ただ、視線だけがこちらを向いている。
「時間、大丈夫ですか」
問いかけは淡々としているのに、
答えを待つ間が、ほんの少し長い。
俺は肩をすくめた。
「命が誘ってくれてうれしいよ」
「……そうですか」
命は小さくうなずく。
それだけ。
でも、歩調が元に戻る。
いや、ほんの少しだけ──近づいた。
命は校門を出て、そのまま駅の方向へ向かった。
歩幅は変わらない。
迷いもない。
「……こっちです」
理由は言わない。
ただ、それだけ。
数分歩くと、低いフェンスと木立が見えてくる。
ベンチが二つあるだけの、小さな公園。
命はその一つに腰を下ろした。
俺も、少し間を空けて隣に座る。
沈黙。
しかしそこに気まずさは無い
「ここ、よく来るの?」
そう聞くと、命は首を横に振る。
「……いつもは、通るだけです」
公園のベンチで、命は背筋を伸ばしたまま、静かに座っている。
夕方の空気が、昼の熱を少しずつ冷ましていく。
「……少しだけ、一緒にいたかったんです」
声は平坦。
だが一緒にいたいと言ってくれることは素直に嬉しい。
俺は横を向いて、命を見る。
彼女は視線を前に向けたまま、こちらを見ない。
ベンチに座ったまま、命はしばらく黙っていた。
夕方の風が、公園の木々を揺らす音だけが流れる。
「……隼人さんを見ていると」
前を向いたまま、静かに続ける。
「落ち着かなくなることが、あります」
そうこぼした。
「理由は、まだ整理できていません」
一拍置いてから、
「視線が気になったり、話している相手が誰なのかを、無意識に見てしまったり」
自分のことを観察するような口調。
「そういう時は……胸の奥が、ざわざわして」
命は、そこで一度言葉を切る。
「でも」
わずかに息を吸って、
「こうして一緒にいると……不思議と、落ち着きます」
今度は、少しだけ視線をこちらに向ける。
「何かを話さなくても、特別なことをしなくても」
ベンチに置いた手の位置が、ほんの少しこちらに寄る。
「……隼人さんのそばにいると、さっきまでのざわつきが、静かになるんです」
無表情のまま。
でも、その言葉だけは、誤魔化しがなかった。
「だから……」
命は小さく首を振る。
「落ち着かないのに、落ち着く、というのは……矛盾しているかもしれませんが」
少し間を置いて、
「今の私には、それが一番近い感覚です」
言い切ったあと、命はそれ以上何も言わなかった。