放課後の校門は、いつもより少しだけ騒がしかった。
運動会が終わったばかりで、まだテンションの抜けきらない連中が多い。
部活に向かうやつ、友達と寄り道するやつ、そのまま帰るやつ。流れはまちまちだ。
俺は特に目的もなく、校門を抜けようとしていた。
「ハヤト様」
後ろから、澄んだ声。
聞き間違えるはずもない。
振り返ると、恵が立っていた。
背筋をまっすぐ伸ばし、いつも通りの落ち着いた佇まい。周囲が少しざわついているのに、そこだけ空気が違う。
「どうした」
「少し、お時間をいただけますかしら」
お願いの形はしているが、遠慮はない。
断られる前提で来ていない声音だ。
「いいけど」
そう答えると、恵は小さくうなずいた。
「ありがとうございます」
それから一拍。
「……以前、お話ししましたでしょう」
俺の目を見る。
「“近いうちに、きちんと時間を取ってほしい”と」
はっきりと、逃げ道を塞ぐ言い方。
「覚えてる」
嘘だ完全に忘れていた
恵は満足そうでも不満そうでもなく、ただ静かに微笑んだ。
「でしたら」
少しだけ声を落として、
「今週の日曜日、お時間を空けておいてくださいませ」
疑問形ではない。
確認に近い。
「予定、あるか?」
「ありません」
即答だった。
「ハヤト様のご都合が悪ければ、来週でも構いませんけれど」
そう言いながらも、視線はまっすぐだ。
「今週でいい」
そう返すと、恵はわずかに目を細めた。
「そう」
それだけ。
「では、決まりですわね」
念押しも、浮かれた様子もない。
約束が成立した事実を、淡々と受け取るだけ。
「詳細は、後ほどお伝えしますわ」
そう言って、恵はくるりと踵を返した。
俺がついてくるかどうか、確認もしない。
当然のように歩き出す背中。
強引じゃない。
でも、引く気もない。
そんな歩き方だった。
☆
日曜日の昼前。
指定された場所に着いた俺は、少しだけ立ち止まって看板を見上げた。
――老舗喫茶・
年季の入った木製の扉に、控えめな金文字。
流行りの店とは程遠いのに、不思議と“格”を感じる佇まいだった。
時間ぴったり。
中へ入ると、コーヒーの香りと、静かなクラシック音楽が迎えてくる。
客層は年配が多く、声も低い。落ち着いた空気だ。
「こちらですわ」
すでに席に着いていた恵が、静かに手を挙げた。
淡い色のワンピースに、控えめなアクセサリー。派手さはないのに、妙に目に残る。
「早いな」
「待たせる趣味はありませんの」
当然のように言う。
俺が向かいに座ると、店員がすぐに水を運んできた。
「いつものを」
恵はメニューを見ずに言う。
「ハヤト様は?」
「じゃあ……コーヒーで」
「この店のブレンドは苦味が強めですわよ」
「それでもいい」
「そうですか」
小さく頷くだけ。
注文が済むと、恵は姿勢を整えたまま、窓の外を一瞬見た。
「ここは、祖母の代から使っているお店ですの」
「そうなんだ」
「家の者にとっては、社交場のようなものですわ」
さらっと言う。
自慢するでもなく、誇るでもなく。
ただの事実として。
「騒がしい場所は、お好きではないでしょう?」
「そうかもな」
「でしたら、ちょうどよろしいかと」
理由はそれだけ。
店員がコーヒーと紅茶を運んでくる。
カップの置き方まで、やけに丁寧だ。
恵は角砂糖を一つだけ入れて、静かにスプーンを回す。
「……こうして向かい合って座ると」
唐突に言った。
「きちんと“時間を取っている”感じがしますわね」
「それが目的だったんだろ」
「ええ」
迷いなく肯定する。
「曖昧なまま、自然消滅のようになる関係は好みませんの」
視線がまっすぐこちらを向く。
「私は、選ぶ時も、待つ時も、はっきりした方が楽ですわ」
感情的な言葉じゃない。
でも、強さはある。
「ハヤト様は、忙しい方ですもの」
「そうか?」
「そうですわ」
恵は紅茶を一口飲む。
「“後で”ではなく、“約束した日”を作る必要がありました」
責めない。
縛らない。
でも、流させない。
それが恵のやり方だった。
ふと思う。
命は、隣に並んで距離を縮めるタイプだ。
恵は、席を用意して向かいに座らせるタイプ。
同じ「近づく」でも、やり方がまるで違う。
コーヒーを一口飲んでから、俺は息をついた。
「……落ち着くな、ここ」
「でしょう?」
恵は当然のように言う。
「騒がしい場所も悪くありませんけれど、長く話すには向きませんわ」
「長く話す前提なんだな」
「本日は、そういう日ですもの」
即答だった。
俺は小さく笑う。
「運動会の時と雰囲気違いすぎて、別人みたいだ」
「失礼ですわね」
そう言いながらも、恵は気にした様子はない。
紅茶を一口飲んで、カップを静かに戻す。
「ハヤト様は、あまり変わりませんわね」
「そうか?」
「ええ。走っていても、囲まれていても、今こうしていても」
少しだけ視線を細める。
「大きくは変わりません」
「それ、褒めてる?」
「半分は」
「残り半分は?」
「……評価ですわ」
どこまで本気か分からない言い方。
店内には、スプーンの触れる音と、低い話し声だけが流れている。
「祖母の代から使っている店とは言え、こういう店、普段は来ないだろ」
「ええ。ですから今日は“体験”ですわ」
「何の?」
「私と過ごす時間の」
さらっと言う。
冗談なのか本気なのか、判断しづらい。
「大げさだろ」
「そう思えるくらいが、ちょうどいいのです」
恵はそう言って、また紅茶を飲んだ。
その横顔は、どこまでも落ち着いていて、余裕があった。
――この時点で、もうデートとしては十分成立している気もする。
けれど恵は、まだ何も終わったつもりはないらしい。
カップを置いて、静かに言った。
「さて」
「まだ続きがある顔だな」
「当然ですわ」
「……で、この後は?」
そう聞くと、恵はわずかに口元を緩めた。
「次は、少し場所を変えますわ」
当然のように。
「ハヤト様には、“きちんとしたデート”を体験していただきませんと」
それが、冗談なのか本気なのか。
判断がつかないところも含めて、恵らしかった。