喫茶店を出ると、すでに通りの端に黒塗りの車が止まっていた。
恵は何も説明しないまま、当然のように後部座席へ向かう。
「迎え、頼んでたのか」
「ええ。移動の時間も、今日の“約束”のうちですもの」
そう言って、先に乗り込む。
俺も続いて乗ると、ドアは静かに閉まった。
車内は驚くほど静かで、外の音が遠くなる。
「……慣れてるな」
「生活ですわ」
それだけ。
誇るでもなく、隠すでもなく。
車はそのまま、市内でも一番高い建物の前に止まった。
高級ホテル。
エントランスに立つだけで、空気が変わる。
制服姿のドアマンが一礼する。
「九条様、お待ちしておりました」
「ありがとう」
恵は小さく頷くだけ。
俺の存在については、何も聞かれない。
“連れ”であることが、最初から前提の扱いだった。
エレベーターで最上階へ。
扉が開くと、そこはもう別世界だった。
天井は高く、照明は柔らかい。
ガラス張りの窓の向こうに、夕暮れの街が広がっている。
ラウンジの中央では、静かにピアノが鳴っていた。
「……すごいな」
「騒がしくなくて、よろしいでしょう?」
恵はそう言って、予約席へ案内される。
窓際の二人席。
店員が椅子を引く。
「ありがとうございます」
恵は自然に礼を言い、先に腰を下ろした。
俺も向かいに座る。
テーブルクロスは白、グラスは薄く、置かれた水の音さえ静かだった。
「落ち着かないかしら」
「いや……思ったより、普通だ」
「そうでしょう?」
小さく微笑む。
「“特別な場所”というのは、案外こういうものですの」
メニューを軽く見てから、店員に告げる。
「私はノンアルコールのカクテルを」
「ハヤト様は?」
「じゃあ、同じので」
「無理に合わせなくてもよろしいのですよ」
「今日は付き合う」
「……そう」
それだけで、少しだけ目元が柔らぐ。
飲み物が運ばれてきて、グラスが置かれる。
街の明かりが、ガラス越しに映り込む。
「ここまで来ると、本当にデートって感じだな」
「ようやく、ですわ」
恵はグラスに口をつける。
「喫茶店は“話す場所”。ここは“向き合う場所”です」
「違いは?」
「逃げ場がない、という点です」
淡々と言う。
「ここでの時間は、曖昧には終わりません」
責める口調じゃない。
宣言に近い。
「命さんは素敵な方ですわ」
突然、そう言った。
視線はグラスの中。
「ハヤト様の周りに、素敵な方がいらっしゃることも、分かります」
一拍。
「けれど私は、退くために来たわけではありませんの」
顔を上げる。
静かで、強い目。
「選ばれるかどうかは、ハヤト様が決めることです」
「でも」
グラスを置く。
「選ばれる席には、最初から座っておきたいのです」
それが、恵のやり方だった。
感情で縋らない。
泣かない。
脅さない。
ただ、位置を取りに来る。
俺はグラスを傾けながら、息をつく。
「……強いな」
「当然ですわ」
小さく笑う。
「弱い者が、この席には座れませんもの」
夕焼けが夜に変わっていく。
街の灯りが増えていくのを、二人で黙って眺めた。
少しだけ、距離が近づく。
でも、触れない。
恵は静かに言った。
「このあと、ここのホテルで食事を予約してあります」
恵はそう言って、グラスを静かに置いた。
「予約してるのか」
「当然ですわ」
小さく微笑む。
「ここまで来て、解散というのも不自然でしょう?」
店員が近づき、軽く会釈をした。
「お食事のお席をご用意しております」
「ええ、お願いします」
恵は立ち上がる。
俺も続く。
ラウンジを出て、同じフロアの奥へ進むと、空気がさらに静かになる。
柔らかな照明、絨毯の感触、控えめな話し声。
個室ではないが、席の間隔は十分に取られていて、周囲の存在がほとんど気にならない。
窓際のテーブル。
夜景が、さっきより近い。
「……こういう店は、正直慣れてない」
席に着いてからそう言うと、恵は少しだけ肩をすくめた。
「慣れる必要はありませんわ」
「そういうもんか?」
「ええ」
ナプキンを膝に置きながら言う。
「場に合わせて無理をするより、そのままでいていただいた方が、私は安心します」
「それ、意外だな」
「意外?」
「もっと……ちゃんとしてほしいタイプかと思ってた」
恵は一瞬だけ考えるような間を置く。
「“ちゃんとした人”は好みですわ」
それから、視線をこちらに向ける。
「でも、“作った人”は、あまり」
淡々とした声。
嘘をつく必要も、背伸びをする必要もない、という意味だろう。
料理が運ばれてくる。
前菜は見た目も静かで、味も主張しすぎない。
「こういうのは、量より流れですわ」
恵が言う。
「急がなくていい。話しながらで」
「デートの教科書みたいだな」
「実践です」
即答。
俺は小さく笑って、フォークを取った。
「……さっきの話だけど」
料理を口に運びながら言う。
「“選ばれる席に座る”ってやつ」
「ええ」
「本気なんだな」
「もちろんです」
間髪入れず。
「私は、時間も立場も、遊びには使いません」
それだけ。
強い言い方じゃない。
でも、引かない声。
「ハヤト様がどう考えているかは、分かりません」
恵がそう言って、グラスを指先で静かに回す。
俺は少しだけ間を置いた。
こういう場所で、曖昧な返事はしたくなかった。
「……正直に言う」
恵は何も言わず、ただ視線を向けてくる。
「将来の話なら」
一度、息を吸う。
「恵がいいって言うなら、結婚も選択肢に入ってる」
はっきり言う。
恵の目が、ほんのわずかに細くなった。
驚きではない。
けれど、その視線には、隠しきれないほど小さな喜びが滲んでいた。
「でも」
続ける。
「今は、好きなやつがいる」
言葉を濁さない。
「そっちにも向き合ってる途中だし、時間も気持ちも、全部を同時には使えない」
逃げない代わりに、飾らない。
「だから、恵との時間を軽く扱うつもりもないけど」
視線を合わせる。
「今すぐ、同じ重さで向き合えるとは言えない」
レストランの静けさの中で、その言葉はよく通った。
恵はすぐには答えない。
ナプキンで指先を整えるように軽く拭き、それから顔を上げる。
「……正直ですわね」
それだけ言って、小さく息をつく。
「取り繕わないところは、嫌いではありません」
視線は逸らさない。
「今すぐ一番になれない、ということも理解しました」
声は穏やかだ。
悔しさを隠すでも、怒るでもない。
「ですが」
はっきりと言う。
「将来の席に、私の名前があるのなら」
ほんの少しだけ、微笑む。
「それで十分です」
強がりではない。
覚悟のある女の言い方だった。
「待つ、というより」
静かに続ける。
「その間に、選ばれる位置に居続けるだけですわ」
グラスを持ち上げる。
「逃げませんし、消えません」
それだけ。
宣言でも、脅しでもない。
“事実”としての言葉。
俺は苦笑する。
「……やっぱ強いな」
「当然です」
恵は涼しい顔で答えた。
「簡単に諦める程度の気持ちで、ここには来ませんもの」