※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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54話 プール開きの日

 六月最初の水泳授業。

 

 プールに近づくほど、空気がそわそわしていくのが分かった。

 

 廊下の角を曲がったあたりから、もう声の密度が違う。

 普段なら落ち着いてる女子まで、無駄に小声が増えて、笑い方が妙に軽い。

 

「……ね、今日ってさ、もう出てくるよね」

「やばい、心臓の準備できてない」

「いや、準備とか無理でしょ」

 

 聞こえてくる会話が、だいたいそんな感じ。

 

 この学校でプールの日が“イベント”になるのは、今さらだ。

 男子が少ない。それだけで全部が特別扱いになる。

 

 俺とレンは更衣室を出て、プールサイドへ向かった。

 

 水着は、学校指定のやつ。

 全身が隠れるタイプで肌が露出する部分なんて、ほとんどない。

 

 それでも――意味がない。

 

 俺たちがプールサイドに姿を見せた瞬間、女子側の空気が一段跳ねた。

 

「きゃっ……!」

「……っ、出た……!」

 

 黄色い声が、波みたいに広がる。

 誰かが叫んだというより、勝手に漏れた悲鳴が連鎖した感じだ。

 レンが一瞬だけ肩をすくめる。

 

「……隼人、やっぱり今日やばい」

「いつもだろ」

「いつもよりやばいよ」

 

 プールともなるとさすがに視線が直だな。

 

 俺は気にしない……と言いたいところだけど、視線の量はさすがに分かる。

 

 全身が隠れてても関係ない。

 

 “男子がいる”

 それだけで、見られる理由として十分なんだ。

 

 指導担当の先生が笛を鳴らす。

 

「はい、騒がない。集まって」

 

 静まらない。

 

 むしろ声量を落として、ひそひそが増えるだけ。

 

「レンくん、やばい……」

「隼人くんも……」

「ね、筋肉が浮き出てるのすっごくエロい」

 

 名前が飛ぶ。

 視線が刺さる。

 レンが小さく息を吐いた。

 

「……全身隠れてるのに、なんでだろ」

「関係ないんだろ、この学校じゃ」

「うん……そうだね」

 

 その時、少し離れたところに命が見えた。

 プールサイドの端。

 タオルを手に持って、立っている。

 

 表情はいつも通り。

 動きも静か。

 

 ただ、視線だけが落ち着かない。

 命の視線がふっと逸れる。

 でも、すぐまた戻る。

 

 ……自分でも分かってない動き。

 

 意識はしてくれているみたいだな。

 

 俺は何も言わずに、レンの肩を軽く叩いた。

 

「行くぞ」

「うん……」

 

 笛がもう一度鳴って、授業が始まる空気に切り替わっていく。

 整列の号令がかかる。

 

 俺は前を向くつもりだったのに、視界の端に命が入った。

 

 水着。制服じゃない。

 それだけで、普段と違う。

 

 命に水着姿は美しかった。

 胸の奥が落ち着かなくなる。

 

 俺は咳払いをひとつして、視線を前に戻した。

 

 ……変に意識するな。

 

 そう思うほど、逆に意識が増す。

 

 隣でレンが小さく息を吸った。

 

「……隼人、なんかさ」

「何」

「いや、命さん……」

 

 言いかけて、レンは言葉を飲み込む。

 目の置き場が難しい、みたいな顔。

 俺も同じだった。

 

 その時、命がこちらを見た。

 

 正確には、俺の顔じゃない。

 視線が一瞬だけ下を通って、それから慌てたみたいに上へ戻る。

 

 表情は無表情のまま。

 

 でも、呼吸の間がほんの少しだけ変わった。

 目を逸らした直後、命はタオルの端をきゅっと握り直す。

 

 それだけ。

 

 何も言わない。

 顔色も変えない。

 

 でも――分かる。

 

 命も、落ち着いてない。

 

 先生の笛が鳴る。

 

「はい、準備運動から。騒がない」

 

 命は小さく頷いて、前を向く。

 

 姿勢はいつも通り綺麗で、動きも静かだ。

 

 なのに、さっきの一瞬が頭の中に残る。

 

 俺は自分の肩を回しながら、余計な考えを追い払う。

 

 命が、もう一度だけこっちを見る。

 

 今度はちゃんと目が合った。

 

 ほんの一拍。

 

 命は何も言わずに、すぐ視線を前へ戻す。

 

 無表情のまま。

 淡々としてるまま。

 

 レンが小さく呟く。

 

「……こういう日、疲れるね」

「分かる」

 

 それだけ言って、俺は前を向いた。

 準備運動がひと通り終わって、先生が笛を鳴らした。

 

「次、バディ組んでストレッチ。二人組、適当に」

 

 女子たちが一斉にざわつく。

 視線が、また集まる。

 レンが俺の袖を軽く引いた。

 

「……隼人、僕と組む?」

 

 いいぞと言いかけた、その時だった。

 影が落ちる。

 隣に、人が立った気配。

 振り向くと、命がいた。

 

 近い。

 

 声もない。

 表情も変わらない。

 

 ただ、そこにいる。

 レンが一瞬だけ固まって、俺と命を交互に見る。

 命は何も言わないまま、レンではなく俺の方を見ている。

 

 視線がまっすぐで、逃げない。

 でも迫ってくる感じでもない。

 

「……命」

 

 俺が呼ぶと、命は小さく頷いた。

 

 それだけ。

 

 先生がもう一度、笛を鳴らす。

 

「はい、始めるよー」

 

 レンが気を利かせたように半歩下がる。

 

「じゃ、僕は……他の子と組むね」

「悪い」

「ううん、いいよ」

 

 レンは早足で離れていった。

 

 命は相変わらず無表情のまま、俺の横に立つ。

 肩が触れそうなくらいの距離。

 だけど命は、触れない。

 境界線をちゃんと守ってる。

 俺は息を吐いて、命に向き直った。

 

「……俺と組むのか」

 

 命は、ほんの一拍置いてから小さく頷く。

 視線は逸らさない。

 言葉もない。

 

 俺が床に手をついて前屈する。

 近くで息をする音が聞こえる。

 普段なら気にならないはずなのに、今日は少しだけ意識が引っかかる。

 命は、呼吸を整えている。

 

 そして、不意に。

 

 命の手が、俺の背中に触れる――直前で止まった。

 触れるべきか迷ったんだろう。

 命は一瞬だけ指先を引っ込めて、代わりに自分のタオルの端を握り直す。

 

 無表情のまま。

 

 でも、その動きが、妙に正直だった。

 俺は前屈したまま、小さく言った。

 

「補助してくれるのか?頼むよ」

 

 命が、ほんの少しだけ目を瞬かせる。

 

 それから、「うん」と頷いた。

 

 指先が、背中にそっと触れる。

 

 強くない。

 支えるだけ。

 

 命は何も言わない。

 

 でもそのまま隣にいることが、今日は妙に効いた。

 

 先生の声が飛ぶ。

 

「はい、次。肩回して」

 

 俺が立ち上がると、命も同時に立ち上がる。

 

 動きが揃う。

 

 偶然じゃない。

 

 命は、意識して隣にいる。

 

 それだけが、妙に嬉しかった。

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