六月最初の水泳授業。
プールに近づくほど、空気がそわそわしていくのが分かった。
廊下の角を曲がったあたりから、もう声の密度が違う。
普段なら落ち着いてる女子まで、無駄に小声が増えて、笑い方が妙に軽い。
「……ね、今日ってさ、もう出てくるよね」
「やばい、心臓の準備できてない」
「いや、準備とか無理でしょ」
聞こえてくる会話が、だいたいそんな感じ。
この学校でプールの日が“イベント”になるのは、今さらだ。
男子が少ない。それだけで全部が特別扱いになる。
俺とレンは更衣室を出て、プールサイドへ向かった。
水着は、学校指定のやつ。
全身が隠れるタイプで肌が露出する部分なんて、ほとんどない。
それでも――意味がない。
俺たちがプールサイドに姿を見せた瞬間、女子側の空気が一段跳ねた。
「きゃっ……!」
「……っ、出た……!」
黄色い声が、波みたいに広がる。
誰かが叫んだというより、勝手に漏れた悲鳴が連鎖した感じだ。
レンが一瞬だけ肩をすくめる。
「……隼人、やっぱり今日やばい」
「いつもだろ」
「いつもよりやばいよ」
プールともなるとさすがに視線が直だな。
俺は気にしない……と言いたいところだけど、視線の量はさすがに分かる。
全身が隠れてても関係ない。
“男子がいる”
それだけで、見られる理由として十分なんだ。
指導担当の先生が笛を鳴らす。
「はい、騒がない。集まって」
静まらない。
むしろ声量を落として、ひそひそが増えるだけ。
「レンくん、やばい……」
「隼人くんも……」
「ね、筋肉が浮き出てるのすっごくエロい」
名前が飛ぶ。
視線が刺さる。
レンが小さく息を吐いた。
「……全身隠れてるのに、なんでだろ」
「関係ないんだろ、この学校じゃ」
「うん……そうだね」
その時、少し離れたところに命が見えた。
プールサイドの端。
タオルを手に持って、立っている。
表情はいつも通り。
動きも静か。
ただ、視線だけが落ち着かない。
命の視線がふっと逸れる。
でも、すぐまた戻る。
……自分でも分かってない動き。
意識はしてくれているみたいだな。
俺は何も言わずに、レンの肩を軽く叩いた。
「行くぞ」
「うん……」
笛がもう一度鳴って、授業が始まる空気に切り替わっていく。
整列の号令がかかる。
俺は前を向くつもりだったのに、視界の端に命が入った。
水着。制服じゃない。
それだけで、普段と違う。
命に水着姿は美しかった。
胸の奥が落ち着かなくなる。
俺は咳払いをひとつして、視線を前に戻した。
……変に意識するな。
そう思うほど、逆に意識が増す。
隣でレンが小さく息を吸った。
「……隼人、なんかさ」
「何」
「いや、命さん……」
言いかけて、レンは言葉を飲み込む。
目の置き場が難しい、みたいな顔。
俺も同じだった。
その時、命がこちらを見た。
正確には、俺の顔じゃない。
視線が一瞬だけ下を通って、それから慌てたみたいに上へ戻る。
表情は無表情のまま。
でも、呼吸の間がほんの少しだけ変わった。
目を逸らした直後、命はタオルの端をきゅっと握り直す。
それだけ。
何も言わない。
顔色も変えない。
でも――分かる。
命も、落ち着いてない。
先生の笛が鳴る。
「はい、準備運動から。騒がない」
命は小さく頷いて、前を向く。
姿勢はいつも通り綺麗で、動きも静かだ。
なのに、さっきの一瞬が頭の中に残る。
俺は自分の肩を回しながら、余計な考えを追い払う。
命が、もう一度だけこっちを見る。
今度はちゃんと目が合った。
ほんの一拍。
命は何も言わずに、すぐ視線を前へ戻す。
無表情のまま。
淡々としてるまま。
レンが小さく呟く。
「……こういう日、疲れるね」
「分かる」
それだけ言って、俺は前を向いた。
準備運動がひと通り終わって、先生が笛を鳴らした。
「次、バディ組んでストレッチ。二人組、適当に」
女子たちが一斉にざわつく。
視線が、また集まる。
レンが俺の袖を軽く引いた。
「……隼人、僕と組む?」
いいぞと言いかけた、その時だった。
影が落ちる。
隣に、人が立った気配。
振り向くと、命がいた。
近い。
声もない。
表情も変わらない。
ただ、そこにいる。
レンが一瞬だけ固まって、俺と命を交互に見る。
命は何も言わないまま、レンではなく俺の方を見ている。
視線がまっすぐで、逃げない。
でも迫ってくる感じでもない。
「……命」
俺が呼ぶと、命は小さく頷いた。
それだけ。
先生がもう一度、笛を鳴らす。
「はい、始めるよー」
レンが気を利かせたように半歩下がる。
「じゃ、僕は……他の子と組むね」
「悪い」
「ううん、いいよ」
レンは早足で離れていった。
命は相変わらず無表情のまま、俺の横に立つ。
肩が触れそうなくらいの距離。
だけど命は、触れない。
境界線をちゃんと守ってる。
俺は息を吐いて、命に向き直った。
「……俺と組むのか」
命は、ほんの一拍置いてから小さく頷く。
視線は逸らさない。
言葉もない。
俺が床に手をついて前屈する。
近くで息をする音が聞こえる。
普段なら気にならないはずなのに、今日は少しだけ意識が引っかかる。
命は、呼吸を整えている。
そして、不意に。
命の手が、俺の背中に触れる――直前で止まった。
触れるべきか迷ったんだろう。
命は一瞬だけ指先を引っ込めて、代わりに自分のタオルの端を握り直す。
無表情のまま。
でも、その動きが、妙に正直だった。
俺は前屈したまま、小さく言った。
「補助してくれるのか?頼むよ」
命が、ほんの少しだけ目を瞬かせる。
それから、「うん」と頷いた。
指先が、背中にそっと触れる。
強くない。
支えるだけ。
命は何も言わない。
でもそのまま隣にいることが、今日は妙に効いた。
先生の声が飛ぶ。
「はい、次。肩回して」
俺が立ち上がると、命も同時に立ち上がる。
動きが揃う。
偶然じゃない。
命は、意識して隣にいる。
それだけが、妙に嬉しかった。