ビート板が配られて、先生が笛を鳴らした。
「はい、蹴伸びで進め。端まで行ったら戻ってこい」
水面が一斉に揺れる。
レンが先に水へ滑り込んだ。
動きが軽い。余計な音がしない。
「じゃ、行くね」
そう言って、レンはビート板を置いても置かなくても変わらない速度で進んでいく。
あいつ、普通にうまい。
俺も水に入る。
水温はまだ少し冷たいが、動けばすぐ慣れる。
その少し横で、ミコトがビート板を胸に抱えて立っていた。
表情はいつも通り静か。
でも、足先だけが落ち着かない。
俺が近づくと、ミコトは先に口を開いた。
「……隼人さん」
「どうした」
一拍。
「泳げません」
言い方は淡々としている。
恥ずかしさを隠すわけでも、開き直るわけでもない。
ただ、事実だけを置く。
でも、その直後に、指先がビート板の端を少し強く握った。
俺は頷いた。
「分かった。じゃあ一緒にやる」
一拍。
「……はい」
声は淡々としてるのに、返事が少しだけ早い。
俺はプールの壁に手をついて、蹴伸びの姿勢を見せる。
「まず、これ。力抜け」
言いながら、自分で一度やって見せた。
水を切る感覚だけを残して、短く。
ミコトはじっと見ている。
目が真面目だ。
「次は、ビート板持って、同じ」
俺はミコトの横に並ぶ。
肩が触れそうなくらい近いが、触れない。
「息は止めるな。水の中で吐け。焦ると沈む」
ミコトは小さく頷く。
それから、壁を蹴った。
最初の一、二メートルは進む。
けど、その先で足が止まりそうになる。
ミコトの指先がビート板を強く握った。
無表情のまま。
でも、力の入れ方が正直だ。
俺はすぐ横にいて、同じ速度で進む。
「止まるな。蹴り続けろ」
声は低く、短く。
ミコトは返事をしない。
でも、足がもう一度動いた。
水が小さく跳ねる。
進む距離は短い。
それでも、さっきより前に出た。
端まで届く前に、ミコトの足がまた弱くなる。
肩がほんの少し上がる。
息が浅い。
俺は距離を詰めすぎないように、でも見失わない位置で言った。
「一回止まっていい。立て」
ミコトは足を下ろして、立つ。
水面から顔を出して、呼吸を整える。
表情は変わらない。
けど、目線が一瞬だけ下がる。
悔しいんだろう。
「……すみません」
小さな声。
「謝るな」
即答した。
「できてる。今ので前より進んだ」
ミコトが少しだけ目を瞬かせる。
褒められると思ってなかったみたいな反応。
俺は続ける。
「次は半分でいい。端まで行く必要ない」
「……はい」
返事は相変わらず淡々。
でも、さっきより少しだけ素直だ。
レンが向こうから戻ってきて、こちらを見て軽く手を振った。
呼吸も乱れてない。
「ミコトさん、いけそう?」
レンが明るく言う。
ミコトは一瞬迷ってから、小さく頷いた。
「……はい。隼人さんが、隣にいます」
レンが目を丸くして、すぐに笑った。
「じゃあ大丈夫だ」
その言い方が、軽くて助かった。
ミコトはもう一度、壁に手をつく。
俺も同じように並ぶ。
「行くぞ」
ミコトの指が、ビート板を握り直す。
表情は変わらない。けど、目だけは真っ直ぐだ。
壁に手をつく。
ビート板を胸の前に置く。
足を揃えて、姿勢を整える。
「まずは、蹴伸び」
俺は横で同じ姿勢を取って見せる。
「息は止めない。吐け。水の中で、細く」
ミコトは一拍置いて、息を吸った。
そして、壁を蹴る。
前より少しだけ滑りがいい。
水面の揺れ方も小さくて、力が逃げてない。
「いい」
短く言う。
ミコトの足が動き出す。
バタ足。ぎこちない。けど止まらない。
数メートル進んだところで、ミコトの動きが一瞬だけ固くなる。
息が浅くなったのが分かる。
視線が、水面のすぐ上を探す。
俺はすぐ隣で、同じ速度に落とした。
「顔、上げなくていい。吐け」
ミコトは返事をしない。
でも、口から小さく泡が出る。
それで十分だ。
少し進んで、ミコトが立ち止まる。
足を下ろして立つ。
肩がほんの少しだけ上下している。
「……すみません」
小さい声。
「謝るな」
俺は水を軽く払って、淡々と言った。
「今のは、ちゃんと進んだ」
ミコトが一瞬だけ目を瞬かせる。
「……進んでましたか」
「進んでた。前より」
事実だけを返す。
ミコトは何も言わない。
でも、ビート板の位置を持ち直した。
もう一回やる気だ。
レンが向こう側から戻ってきて、こちらに寄ってきた。
息も乱れてない。やっぱりこいつはうまい。
「隼人、ミコトさん、いい感じ?」
「今、コツ掴みかけ」
レンがミコトを見る。
「大丈夫だよ。最初はみんなそうだし」
軽い言い方が、妙に救いになる。
ミコトは視線を逸らさず、レンに小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
言ったあと、すぐ俺の方を見る。
次を待ってる目。
俺は短く指示した。
「次は、息継ぎはしない。蹴って、吐いて、止まる前に立つ。それだけ」
「……はい」
ミコトは壁に戻る。
手をつく。
息を吸う。
蹴る。
今度は、最初から泡が出た。
前より落ち着いてる。
「そう、それ」
声を落として言う。
ミコトは端まで行けない。
でも、前より確実に距離が伸びてる。
届かなくてもいい。
今は“怖くない距離”を増やすだけだ。
ミコトが立って、呼吸を整える。
表情は無表情のまま。
けど、目の奥だけが少しだけ強い。
「……もう一回」
小さく言った。
命からそんな言葉が出るのは珍しい。
「いいぞ」
ただそれだけ返す。
レンが横で、こっそり親指を立てた。
「ミコトさん、負けず嫌いだね」
ミコトは何も言わない。
でも、ビート板を握る手が、また少しだけ強くなる。
先生の笛が鳴る。
「はい、次はコースを使うぞ。泳げるやつは一本、苦手なやつは補助ありで練習」
周りが動き出す。
ミコトの視線が、一瞬だけ揺れた。
“泳げるやつ”の方へ行くのか、
“補助あり”の方へ行くのか。
迷いはほんの一瞬。
ミコトは無言で、補助ありの列へ向かった。
俺はその横に並ぶ。
「俺もそっちでいい?」
ミコトが、少しだけ目を見開く。
「……隼人さんは、泳げるのでは」
「泳げるけど」
肩をすくめる。
「ミコトとやった方が、早いだろ」
ミコトは何も言わない。
でも、ビート板の端を握る指先が、さっきより落ち着いた。
隣にいるだけで、少し安心する。
そんな空気が、伝わってきた。
レンは泳げる列へ向かいながら振り返る。
「じゃ、僕は一本泳いでくるね」
「行ってこい」
レンが水に滑り込むと、周囲からまた小さな歓声が上がる。
でも、今の俺はそれよりも。
隣で静かに息を整えているミコトの方が、気になっていた。
「……隼人さん」
ミコトが小さく呼ぶ。
「どうした」
一拍。
「隣にいてくれて……助かります」
声は淡々としてるのに、言葉だけがやけに真っ直ぐだった。
俺は、いつも通りの調子で返した。
「じゃあ、ちゃんと泳げるようになるまで付き合う」
ミコトは小さく頷いた。
無表情のまま。
でも、目だけが少しだけ柔らかくなっていた。