※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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55話 金槌

 ビート板が配られて、先生が笛を鳴らした。

 

「はい、蹴伸びで進め。端まで行ったら戻ってこい」

 

 水面が一斉に揺れる。

 

 レンが先に水へ滑り込んだ。

 動きが軽い。余計な音がしない。

 

「じゃ、行くね」

 

 そう言って、レンはビート板を置いても置かなくても変わらない速度で進んでいく。

 あいつ、普通にうまい。

 

 俺も水に入る。

 水温はまだ少し冷たいが、動けばすぐ慣れる。

 

 その少し横で、ミコトがビート板を胸に抱えて立っていた。

 

 表情はいつも通り静か。

 でも、足先だけが落ち着かない。

 

 俺が近づくと、ミコトは先に口を開いた。

 

「……隼人さん」

「どうした」

 

 一拍。

 

「泳げません」

 

 言い方は淡々としている。

 恥ずかしさを隠すわけでも、開き直るわけでもない。

 ただ、事実だけを置く。

 

 でも、その直後に、指先がビート板の端を少し強く握った。

 

 俺は頷いた。

 

「分かった。じゃあ一緒にやる」

 

 一拍。

 

「……はい」

 

 声は淡々としてるのに、返事が少しだけ早い。

 

 俺はプールの壁に手をついて、蹴伸びの姿勢を見せる。

 

「まず、これ。力抜け」

 

 言いながら、自分で一度やって見せた。

 水を切る感覚だけを残して、短く。

 

 ミコトはじっと見ている。

 

 目が真面目だ。

 

「次は、ビート板持って、同じ」

 

 俺はミコトの横に並ぶ。

 肩が触れそうなくらい近いが、触れない。

 

「息は止めるな。水の中で吐け。焦ると沈む」

 

 ミコトは小さく頷く。

 

 それから、壁を蹴った。

 

 最初の一、二メートルは進む。

 けど、その先で足が止まりそうになる。

 

 ミコトの指先がビート板を強く握った。

 

 無表情のまま。

 でも、力の入れ方が正直だ。

 

 俺はすぐ横にいて、同じ速度で進む。

 

「止まるな。蹴り続けろ」

 

 声は低く、短く。

 

 ミコトは返事をしない。

 でも、足がもう一度動いた。

 

 水が小さく跳ねる。

 

 進む距離は短い。

 それでも、さっきより前に出た。

 

 端まで届く前に、ミコトの足がまた弱くなる。

 

 肩がほんの少し上がる。

 

 息が浅い。

 

 俺は距離を詰めすぎないように、でも見失わない位置で言った。

 

「一回止まっていい。立て」

 

 ミコトは足を下ろして、立つ。

 

 水面から顔を出して、呼吸を整える。

 

 表情は変わらない。

 

 けど、目線が一瞬だけ下がる。

 

 悔しいんだろう。

 

「……すみません」

 

 小さな声。

 

「謝るな」

 

 即答した。

 

「できてる。今ので前より進んだ」

 

 ミコトが少しだけ目を瞬かせる。

 

 褒められると思ってなかったみたいな反応。

 

 俺は続ける。

 

「次は半分でいい。端まで行く必要ない」

「……はい」

 

 返事は相変わらず淡々。

 

 でも、さっきより少しだけ素直だ。

 

 レンが向こうから戻ってきて、こちらを見て軽く手を振った。

 呼吸も乱れてない。

 

「ミコトさん、いけそう?」

 

 レンが明るく言う。

 

 ミコトは一瞬迷ってから、小さく頷いた。

 

「……はい。隼人さんが、隣にいます」

 

 レンが目を丸くして、すぐに笑った。

 

「じゃあ大丈夫だ」

 

 その言い方が、軽くて助かった。

 ミコトはもう一度、壁に手をつく。

 俺も同じように並ぶ。

 

「行くぞ」

 

 ミコトの指が、ビート板を握り直す。

 表情は変わらない。けど、目だけは真っ直ぐだ。

 

 壁に手をつく。

 ビート板を胸の前に置く。

 足を揃えて、姿勢を整える。

 

「まずは、蹴伸び」

 

 俺は横で同じ姿勢を取って見せる。

 

「息は止めない。吐け。水の中で、細く」

 

 ミコトは一拍置いて、息を吸った。

 

 そして、壁を蹴る。

 

 前より少しだけ滑りがいい。

 水面の揺れ方も小さくて、力が逃げてない。

 

「いい」

 

 短く言う。

 

 ミコトの足が動き出す。

 バタ足。ぎこちない。けど止まらない。

 

 数メートル進んだところで、ミコトの動きが一瞬だけ固くなる。

 

 息が浅くなったのが分かる。

 視線が、水面のすぐ上を探す。

 

 俺はすぐ隣で、同じ速度に落とした。

 

「顔、上げなくていい。吐け」

 

 ミコトは返事をしない。

 でも、口から小さく泡が出る。

 

 それで十分だ。

 

 少し進んで、ミコトが立ち止まる。

 

 足を下ろして立つ。

 肩がほんの少しだけ上下している。

 

「……すみません」

 

 小さい声。

 

「謝るな」

 

 俺は水を軽く払って、淡々と言った。

 

「今のは、ちゃんと進んだ」

 

 ミコトが一瞬だけ目を瞬かせる。

 

「……進んでましたか」

「進んでた。前より」

 

 事実だけを返す。

 

 ミコトは何も言わない。

 でも、ビート板の位置を持ち直した。

 

 もう一回やる気だ。

 

 レンが向こう側から戻ってきて、こちらに寄ってきた。

 息も乱れてない。やっぱりこいつはうまい。

 

「隼人、ミコトさん、いい感じ?」

「今、コツ掴みかけ」

 

 レンがミコトを見る。

 

「大丈夫だよ。最初はみんなそうだし」

 

 軽い言い方が、妙に救いになる。

 

 ミコトは視線を逸らさず、レンに小さく頷いた。

 

「……ありがとうございます」

 

 言ったあと、すぐ俺の方を見る。

 

 次を待ってる目。

 

 俺は短く指示した。

 

「次は、息継ぎはしない。蹴って、吐いて、止まる前に立つ。それだけ」

 

「……はい」

 

 ミコトは壁に戻る。

 

 手をつく。

 息を吸う。

 

 蹴る。

 

 今度は、最初から泡が出た。

 前より落ち着いてる。

 

「そう、それ」

 

 声を落として言う。

 

 ミコトは端まで行けない。

 でも、前より確実に距離が伸びてる。

 

 届かなくてもいい。

 今は“怖くない距離”を増やすだけだ。

 

 ミコトが立って、呼吸を整える。

 

 表情は無表情のまま。

 けど、目の奥だけが少しだけ強い。

 

「……もう一回」

 

 小さく言った。

 

 命からそんな言葉が出るのは珍しい。

 

「いいぞ」

 

 ただそれだけ返す。

 

 レンが横で、こっそり親指を立てた。

 

「ミコトさん、負けず嫌いだね」

 

 ミコトは何も言わない。

 でも、ビート板を握る手が、また少しだけ強くなる。

 

 先生の笛が鳴る。

 

「はい、次はコースを使うぞ。泳げるやつは一本、苦手なやつは補助ありで練習」

 

 周りが動き出す。

 

 ミコトの視線が、一瞬だけ揺れた。

 

 “泳げるやつ”の方へ行くのか、

 “補助あり”の方へ行くのか。

 

 迷いはほんの一瞬。

 

 ミコトは無言で、補助ありの列へ向かった。

 

 俺はその横に並ぶ。

 

「俺もそっちでいい?」

 

 ミコトが、少しだけ目を見開く。

 

「……隼人さんは、泳げるのでは」

「泳げるけど」

 

 肩をすくめる。

 

「ミコトとやった方が、早いだろ」

 

 ミコトは何も言わない。

 

 でも、ビート板の端を握る指先が、さっきより落ち着いた。

 

 隣にいるだけで、少し安心する。

 そんな空気が、伝わってきた。

 

 レンは泳げる列へ向かいながら振り返る。

 

「じゃ、僕は一本泳いでくるね」

「行ってこい」

 

 レンが水に滑り込むと、周囲からまた小さな歓声が上がる。

 

 でも、今の俺はそれよりも。

 

 隣で静かに息を整えているミコトの方が、気になっていた。

 

「……隼人さん」

 

 ミコトが小さく呼ぶ。

 

「どうした」

 

 一拍。

 

「隣にいてくれて……助かります」

 

 声は淡々としてるのに、言葉だけがやけに真っ直ぐだった。

 

 俺は、いつも通りの調子で返した。

 

「じゃあ、ちゃんと泳げるようになるまで付き合う」

 

 ミコトは小さく頷いた。

 

 無表情のまま。

 

 でも、目だけが少しだけ柔らかくなっていた。

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