期末の朝は、教室の空気が最初から硬い。
いつもなら誰かが無駄口を叩くのに、今日は椅子を引く音まで小さく聞こえる。窓の外は梅雨の薄い光で、机の上だけが妙に白い。
前からプリントが回ってくる。範囲表じゃない。答案用紙だ。
紙が配られるたび、視線が落ちる。鉛筆を転がす音が、やけに目立つ。
チャイム。
先生が淡々と言う。
「では始めます。始め」
一斉に紙がめくられる音。
俺も問題用紙を開いて、まず歴史を見た。
旧石器、縄文、弥生、古墳。
この範囲は人物名で迷うより、特徴を束で引っ張る方が速い。ミコトが書いた通りだ。
旧石器は打製石器、狩猟採集、移動生活。土器はなし。
縄文は土器、竪穴住居、貝塚、土偶。定住が進む。
弥生は稲作、環濠集落、高床倉庫、金属器。邪馬台国。
古墳は前方後円墳、埴輪、豪族、身分差。
問題は、そこから先だ。
邪馬台国に関する設問。太字の名前が目に入った瞬間、頭の中で別の表記が勝手に浮かぶ。
前の世界の記憶が、余計な方向から引っ張ってくる。
ほんの一瞬、ペン先が止まった。
その瞬間、図書室の机の上が脳裏に出る。
ミコトの綺麗な字。迷いを切るみたいに書かれていた束。
邪馬台国、卑弥彦、魏に遣使。
名前を覚えるんじゃない。出来事で固定する。
俺は息を吐いて、余計な連想を捨てた。
今必要なのは、この教科書の正解だ。
答案用紙に、迷いなく書く。
気づけば鉛筆の音が、自分の耳の中だけで規則正しく鳴っていた。
周りは静かだ。
静かすぎて、逆に分かる。みんな必死だ。
レンの方を見なくても、なんとなく察する。たぶん数学で苦しむ顔をしてる。
でも、今は俺も自分のことで手一杯だ。
先生が残り時間を告げる。
俺は最後に見直して、束が崩れていないのを確認した。
提出。
立ち上がる音がぱらぱらと続いて、ようやく教室が息をし始める。
次の科目。
次の科目。
昼前には、頭の中が鉛筆の粉みたいにざらついてきた。
気づけば、最後のチャイムが鳴っていた。
机の上に残るのは、削れた芯と、終わった紙の感触だけ。
俺は小さく息を吐く。
無事に終わった。少なくとも、今日の分は。
そこから先の一週間は、同じ朝の繰り返しだった。
教室の硬い空気。
配られるプリント。
紙をめくる音と、鉛筆の走る音。
科目が変わっても、流れは変わらない。
始まって、書いて、終わって、息を吐く。
頭の中が疲れてくると、前世の記憶が余計な形で顔を出す。
知っているはずのものが、こっちの世界では少し違う。
名前だったり、表記だったり、前提だったり。
最初の頃は、それが小さなノイズになった。
けど今回は、違った。
図書室の机。
命のノート。
あの“束”が、何度も俺を助けた。
用語を単体で覚えるんじゃなくて、まとまりで引っ張る。
余計な連想が入りそうになっても、束に戻る。
それだけで、手が止まらなくなる。
数学も同じだった。
レンが苦手なところは、途中式を飛ばさない。
式にして、整理して、符号を見落とさない。
テスト期間の昼休みは短い。
屋上で弁当を食べる時間も、いつもより少し静かだった。
「今日、終わった……」
レンが毎回それを言う。
言い方は違っても、意味は同じだ。
命は、淡々と「お疲れさまでした」と言うだけ。
そのくせ、俺とレンがどこで引っかかったかだけは、ちゃんと覚えている。
放課後に軽く確認するだけで、次の日の不安が薄れた。
命は“頑張れ”とは言わない。
ただ、必要なことだけを置いていく。
それが、妙に効いた。
そして、最終日。
最後の科目が終わって、先生が「終わり」と言った瞬間。
教室の空気が一気にほどけた。
机に突っ伏すやつ。
笑い出すやつ。
無言で天井を見上げるやつ。
レンは椅子の背にもたれて、細く息を吐いた。
「……生きた」
「お前は毎回死にかけてるだろ」
「今回は、ちゃんと生きた」
命は表情を変えずに、ノートを閉じた。
「終わりましたね」
その一言が、やけに現実味を持つ。
俺は窓の外を見る。
湿った風が、校庭の木を揺らしている。
――手ごたえがある。
胸の奥に、確かな重さが残っていた。
運じゃない。まぐれでもない。
やった分だけ書けた、という感触。
放課後、水筒だけを持って屋上へ上がった。
風が湿っていて、でも少しだけ軽い。テストが終わった風だ。
フェンス際にはいつものメンツが揃っていた。
レン、命、それから日和と恵。日和と恵は別クラスなのに、こういう時だけ集合が早い。
「隼人くん」
日和が手を振った。
いつも通りマイペースな声のはずなのに、今日はちょっとだけ弱い。
「どうだった?」
「まあ、悪くない」
俺が言うと、レンが横で力なく頷く。
「僕は……たぶん……たぶん……」
「たぶん多いな」
「数学がさ」
レンはそれ以上言わずに、フェンスにもたれた。
日和がそれを見て、同じように肩を落とす。
「わたしも……たぶん……たぶん……」
レンと同じだ。
いつもの日和なら、笑顔で「大丈夫だよ」って言いそうなのに、今日は言わない。
言えない。
恵がふっと息を吐いて、扇子でも持ってそうな余裕の角度で言った。
「そんなに揃って沈まなくてもよろしいのに」
「恵は余裕なのか」
「点は落としませんわ」
言い切るのが恵らしい。
命は無表情のまま、俺の隣に立っている。
話すでもなく、聞いているだけ。けれど、空気の中心がぶれない。
レンがぼそっと言った。
「日和さんも落ち込むんだね……」
「落ち込むよ……」
日和が珍しく正直に言って、さらに肩を落とす。
「だって、最後のやつ、公式は分かったのに……途中で数字が……」
「わかる、それ僕も」
レンと日和が、同時にうなずいた。
沈み方まで似てる。
俺は二人を見て、笑いそうになってやめた。笑うと余計沈む。
「お前ら、終わったんだし、もういいだろ」
「よくないよ」
レンが即答する。
「結果が出るまでずっと苦しい」
「それ、テスト期間より長いぞ」
日和も小さく頷く。
「うん……今、ちょっと危ないかも……」
日和が“危ない”なんて言うの、かなり珍しい。
のほほんが剥がれてる。
恵が日和の肩に手を置いた。
「日和、深呼吸なさいませ」
「うん……」
日和は素直に息を吸って吐く。
恵がこういう時だけちゃんとブレーキ役になるのも、いつも通りだった。
命が、淡々と口を開く。
「……レンさん、日和さん」
二人が顔を上げる。
「最後の問題が難しかったなら、皆同じです」
慰めでも励ましでもない、事実みたいな言い方。
でも、それが一番効く。
レンが少しだけ息を吐いた。
「……命さん、そういうとこ助かる」
日和も同じように頷く。
「うん……落ち着く……」
命は何も言わない。
ただ、視線を外さない。
俺はフェンスにもたれて、空を見上げた。
雲は重いのに、気分は少し軽い。
「やるだけやった。あとは結果だ」
レンが小さく笑った。
「ハヤトは、そういうの強いよね」
「強いっていうか、慣れ」
「慣れ、かぁ」
日和が、のほほんとした声に戻りかける。
完全じゃないけど、それでいい。
恵が俺を見る。
「では、打ち上げでもいかが?」
レンが顔を上げた。
「打ち上げ……?」
「ええ。終わったのですもの。沈んだままでいるのは勿体ないですわ」
日和も小さく頷く。まだ不安は残ってる顔だけど、拒むほどじゃない。
命は何も言わない。
ただ、視線だけが一度だけ俺に向いて、すぐに外れた。
俺は肩をすくめる。
「じゃあ行くか。近場で」
レンが少しだけ息を吐いて、苦笑した。
「……隼人、こういう時の決断早いね」
「迷ってもテストは戻らない」
恵が満足そうに微笑む。
「決まりですわね」
こうして、期末が終わった日の放課後は、屋上から少し先へ続くことになった。