返却日の朝は、テスト期間より落ち着かない。
教室の前の机に、答案が積まれているだけで分かる。
あれが返ってくる。紙一枚で、空気が変わる。
「じゃあ返すぞー。まず数学」
先生の声がやけに明るい。
こういう時だけ元気なの、ずるい。
レンが俺の隣で、露骨に固くなった。
「……隼人、僕、今心臓が痛い」
「心臓は痛くならない」
「痛いんだよ……」
名前が呼ばれて、レンが答案を取りに行く。
戻ってきて、机の上でそっと伏せたまま動かない。
「見ろよ」
「見たくない」
「じゃあ一生見ないで単位落とせ」
「それは嫌!」
レンが勢いで紙をめくって、固まった。
次に、目が丸くなる。
「……え」
「どうした」
「……生きてる」
「だから死んでないって」
レンは点数欄を指でなぞって、ようやく息を吐いた。
「ギリじゃない……ギリじゃないよ、これ……!」
嬉しいのに信じられない、って顔。
その表情だけで、こっちまで少し軽くなる。
先生が続ける。
「次、歴史」
俺は椅子に深く座り直した。
前世の記憶がノイズになるのが怖かった科目。けど、今回はやった分だけ書けた感触がある。
呼ばれて取りに行って、席に戻る。
裏返したまま置いた。
横から、命の視線を感じた。
無表情なのに、見てるのが分かる。
「……見ないのですか」
命が小さく言う。
「見るよ」
俺はあっさり答えて、答案を指先で叩いた。
「手応えあったしな」
命の目が、ほんの一瞬だけ動く。
無表情のまま、でも聞き逃してない。
「……そうですか」
「そう」
俺は紙をめくった。
点数欄に、はっきりした数字。
92点。
思わず口元が緩む。
ちゃんと取れた。
しかも、いい点だ。
命は何も言わない。
ただ、答案の数字を一度だけ見て、それから俺の顔に視線を戻した。
無表情のまま。
でも、目だけがほんの少しだけ細くなる。
「……高いですね」
小さな声だった。
「だろ」
俺が短く返すと、命は一拍置いて、ほんの少しだけ頷いた。
「……安心しました」
その一言が、妙に胸に残った。
日和のクラスは別だから同じ教室にはいない。
でも、昼になれば屋上に来る。そこで全部分かる。
休み時間、レンがまだ答案を眺めている。
「隼人、僕さ」
「ん」
「ちゃんとやれば、ちゃんと残るんだね……」
「当たり前だろ」
「当たり前って言えるの、強い」
俺は笑って、窓の外を見た。
梅雨の雲はまだ重い。けど、今日は少しだけ空が明るい。
昼休み、屋上に上がると風が湿っていた。
フェンスの向こうからグラウンドの声が薄く届く。期末が終わっても、学校はいつも通り動いてる。
いつもの場所に、いつもの顔。
レンが先に来ていて、弁当箱を開きながら珍しく落ち着かない笑い方をしていた。
「隼人、聞いて」
「何だよ」
レンは答案を取り出して、俺に見せる。
点数欄を指で叩いて、まだ信じられないって顔。
「僕さ、数学……ちゃんと取れてた」
「見た。生きてたな」
「生きてたどころか、僕にしては奇跡」
レンは一拍置いて、隣にいる命を見る。
命は無表情で、お茶を口にしているだけ。
レンが素直に言った。
「命のお陰だよ」
命は返事をしない。
けど、まぶたが一度だけゆっくり落ちて上がる。肯定でも否定でもない、いつもの反応。
「……良かったです」
やっと出た言葉はそれだけだった。
だが少しだけ誇らしげだった。
レンが笑う。
「そういうとこだよ。そういうとこが助かる」
そのやり取りの横で、日和が弁当箱を開けたまま、動いてない。
普段なら最初に箸をつけるのに。
今日は目線が落ちたまま、肩が少しだけ沈んでいる。
恵がそれを見て、わざとらしく明るい声を出した。
「日和、どうしましたの。食べませんの?」
日和が小さく首を振る。
「……食べるけど……今はちょっと……」
レンが気づいて、顔を向ける。
「日和さん、どうしたの」
日和はしばらく黙ってから、鞄の奥から一枚の紙を出した。
答案用紙。角が少しだけ折れている。
恵がちらっと覗いて、次の瞬間、声を落とした。
「……まあ」
日和がぽつりと言う。
「……赤点だった」
屋上の風が、一瞬だけ強く吹いたみたいに空気が止まる。
レンが口を開けて、すぐ閉じた。
「……え、ほんとに?」
日和は頷く。
目は伏せたまま。
「うん……ほんとに」
命は無表情のまま日和を見る。
目だけが、少しだけ真面目になる。
俺は日和の紙を見て、短く言った。
「何でだ」
「分かんない……いや、分かってるけど……」
日和が唇を噛む。
「最後、ちゃんと見直したのに……計算がずれてて……」
レンがそっと言う。
「僕もそれ、やった」
「うん……」
日和は笑わない。
笑える種類の失敗じゃない。
恵が日和の隣に座って、背中を軽く叩いた。
「日和、落ち込むのは構いませんわ。でも、食べてくださいませ。倒れます」
「……うん」
日和は小さく頷いて、ようやく箸を取った。
取ったけど、動きが遅い。
レンが困った顔で俺を見る。
俺は肩をすくめて、日和を見る。
「追試だろ」
日和が小さく頷く。
「……うん」
「じゃあやるだけだ」
俺が言うと、日和は少しだけ顔を上げた。
泣きそうではない。でも、折れかけている。
命が、淡々と口を開く。
「……日和さん」
「なに……?」
「私が、一緒に見ます」
言い方は事務的。
でも、その一言の重みが、日和の肩をほんの少し戻した。
「……いいの?」
「当然です」
命は同じ言葉を、今度は日和に向けて言った。
レンがすぐ乗る。
「僕もやる。今度は日和さんの番だよ」
恵がふっと笑う。
「では、わたくしも同席しますわ。日和が逃げないように」
「逃げないよ……たぶん……」
日和が小さく返して、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
落ち込んでるのは変わらない。
でも、屋上の空気はもう沈まなかった。
追試がある。
だからこそ、ここで支える意味がある。
俺は弁当の蓋を開けて、短く言った。
「食え。午後からまた始まるぞ」
「やめて」
レンが反射で言って、日和が小さく笑った。