終業式の朝は、教室の空気が妙に軽かった。
机の上にあるのは教科書じゃなくて、配られる予定のプリントの束。窓の外は梅雨が明けきらない白さで、蝉の声がまだ遠い。
レンが俺の隣で、椅子を揺らしながら小さく息を吐く。
「ついに来たね……終業式」
「来たな」
「夏休みって聞くと嬉しいのに、宿題って聞くと死にたくなる」
「毎年同じこと言ってる」
「成長してないってこと?」
「安定してるってことだろ」
レンがむっとして、でもすぐ笑った。
こういう空気が戻ってくると、テスト返しの屋上がもう遠い。
前の席の命は、背筋を伸ばしたまま動かない。
表情もいつも通り。
ただ、配布されたプリントの端を揃える手つきがやけに丁寧で、今日が区切りの日だってことは命も分かってるんだと伝わってくる。
担任が入ってきて、教室のざわつきを一度だけ手で押さえた。
「はい、静かに。終業式行くぞ。荷物は置いていけ」
椅子が引かれて、廊下に列ができる。
全校生徒が体育館に向かって流れていく感じが、好きでも嫌いでもない。夏の入口の匂いがするからだ。
体育館は蒸していた。
床のワックスの匂い、汗、扇風機の弱い風。上級生の列が整っていく音が、天井に吸われていく。
俺とレンは並んで座る。
命は少し前の列。背中だけで真面目が分かる。
校長の話が始まった。
「──皆さん、一学期、大変よく頑張りました」
お決まりの言葉。
でも、その“頑張りました”の中身が、今年は少しだけ違う気がした。
みんなで屋上で駄弁ったこと
命が淡々と隣にいて、レンが少しずつ前に進んだこと。
日和が赤点で沈んでも、誰も見捨てなかったこと。
そういうのが全部、今の一学期だ。
暑さにぼんやりしながらも、俺は妙に現実感を持って座っていた。
「──夏休みは、事故に気をつけ、規則正しい生活を心がけ」
長い。
レンが横で小さく欠伸を噛み殺す。
「──最後に、皆さん。時間は有限です。計画的に──」
計画的。
その言葉に、なぜか恵の顔が浮かんだ。
“整えておきますわ”って言い方。あれは絶対、何か仕掛けてくる。
式が終わって、校歌。
歌声が体育館に広がって、終わった瞬間だけ空気が少し涼しく感じた。
解散の合図。
列がほどけて、教室へ戻る。
廊下に出た瞬間、みんなの顔がもう夏休みのものになっていた。
走り出しそうなやつ、友達と笑い合うやつ、予定を話し始めるやつ。
俺は、ふっと息を吐く。
夏が来る。
この夏はレンは動く。
恵はもう、動かす準備をしてる。
俺もいい夏にしたいな。
教室に戻ると、担任が最後のプリントを配り終えて言った。
「じゃあ、解散。部活は顧問の指示に従え。補習組は忘れるなよ」
その“補習組”に反応した数人が、露骨に肩を落とす。
レンが横で小声で言った。
「日和さん、大丈夫かな……」
「大丈夫にするんだろ」
「うん……」
終業式の日の放課後は、みんな帰りが早い。
廊下のざわつきも、いつもより軽い。
俺とレンが屋上に向かうと、もう恵と日和が先にいた。
恵はいつも通り涼しい顔。日和は少しだけ元気が戻ってるけど、目の奥にまだ“追試”がいる。
命は少し遅れて来た。
扉が開いて、静かな足音。無表情のまま、いつもの位置に立つ。
全員揃うと、屋上の風が一段強く吹いた。
湿った空気が、夏の手前に変わり始めている。
「終わったね」
日和が言う。
言い方は軽いのに、どこか慎重だ。
「終わりましたわね」
恵が頷く。
「一学期、お疲れさまですわ。……ハヤト様も、レンも、命さんも」
名前を順番に呼ばれると、“区切り”がちゃんと形になる。
日和が小さく笑った。
「わたし……終わってない」
「追試か」
俺が言うと、日和がうん、と頷く。
「うん」
命が淡々と口を開いた。
「日和さん、追試の三日間……私も付きます」
日和が目を丸くする。
「え、命ちゃん、ほんとに……?」
「はい。追試の補習の時間、同じ場所にいます」
言い方が事務的すぎて、レンが吹き出しかけた。
「命さん、言い方」
「事実です」
命は平然としている。
でも、目だけは日和をちゃんと見ている。
日和の肩が少しだけ戻った。
「……うん。逃げない。たぶん」
「たぶん、じゃありません」
命が即座に訂正する。
「……逃げない」
日和が言い直して、恵が満足そうに頷いた。
「よろしいですわ」
恵が一度だけ、周りを見回した。
涼しい顔のまま、声を落とす。
「夏休み、皆さん。丸々一週間、泊まり込みで空けておいてくださいませ」
レンが固まる。
「……泊まり込み?」
日和も目を丸くした。
「え、合宿みたいな……?」
命は無表情のまま。
でも、視線だけが恵に向いたまま動かない。
俺は眉を上げる。
「急だな」
「急ではありませんわ」
恵はさらっと言う。
「勝負どころは、逃げられない方が良いですもの」
「怖いよ」
レンが小声で言うと、恵はにこりと笑う。
「レン、あなたは怖がっている場合ではありませんわ」
「……え?」
レンの声が裏返る。
恵は言い切った。
「あなたは、日和に動くのでしょう?」
日和が「え」と言いかけて、口を閉じる。
レンが顔を赤くして、視線を泳がせる。
俺はため息をついた。
「話が早すぎる」
「早い方が良いですわ」
恵は俺を見て、少しだけ真面目な目になる。
「ハヤト様も、来てくださいませ。皆が揃っていた方が、物事は整います」
命が小さく言う。
「……泊まり込み、どこで」
「それは当日まで内緒ですわ」
恵は即答した。
日和が不安そうに笑う。
「内緒って……」
「楽しみにしていてくださいませ」
恵はそう言って、最後にもう一度、釘を刺す。
「いいですわね。一週間、必ず空けること。泊まり込みです」
レンがぼそっと呟く。
「……僕、今、逃げ道が消えていく音がした」
「気のせいではありませんわ」
恵が平然と言って、屋上の空気が少しだけ笑いに寄った。
命は会話に入らない。
ただ、俺の横に並んで、風に髪を揺らしている。
その距離が、当たり前みたいになってきているのが分かった。
「夏休みか」
俺が言うと、レンが小さく頷く。
「夏休みだよ」
日和も、少しだけ笑う。
「暑そうだね」
恵は微笑む。
「暑い方が良いですわ。思い出は、熱い方が残りますもの」
命が小さく言った。
「……私は、暑いのは苦手です」
「知ってる」
俺が返すと、命は無表情のまま、でも一拍だけ間を置く。
「……でも」
続きがある。
「皆さんとなら、大丈夫だと思います」
それを言った瞬間、レンが「うわ」って顔で固まった。
「命さん、今の……ずるい」
「何がですか」
「可愛い」
「……理解できません」
日和が笑って、恵が上品に笑う。
屋上の空気が、ほんの少しだけ明るくなる。
終業式の日の屋上は、
夏休みの入口みたいな場所だった。
みんなそれぞれ不安もある。
でも、動く予定がある。
それが分かっているだけで、風が少しだけ心地よかった。