「母さん夜ごはんどうする?」
「出前とりましょ、何がいい?」
「寿司がいいな」
「いいわね。じゃあちょっと良いやつにする?」
「こひな、寿司は食えないぞ」
こひなは尻尾だけ全力で振って、俺の膝に顎を乗せてくる。
「分かってない顔してるな」
「いい子だねえ」
母さんがこひなの頭を撫でる。
こひなは満足そうに目を細めた。ちょろい。
「で、ネタどうする?」
「サーモン多め」
「子ども」
「うるさい」
「じゃあマグロも入れよう。あと茶碗蒸し」
「それも頼めるんだ」
「頼めます」
注文を確定する指が軽く止まって、母さんが俺を見る。
「ハヤト、最近さ」
「ん」
「ちょっと楽しそう」
俺はソファに沈んだまま、扇風機の風を受ける。
否定するほどでもない。
「まあ、夏休みだし」
「それだけ?」
「それだけじゃないかも」
母さんはそこで深掘りしてこない。
ただ、嬉しそうに小さく頷く。
「そっか」
その一言が、妙に落ち着く。
家の空気ってこういうのだ。
母さんはスマホをいじりながら笑って、注文画面を開く。
チャイムが鳴って、俺が寿司を受け取ると、こひなが玄関で尻尾をブンブン振り続けた。
配達の人が去ってもまだ興奮してて、母さんが笑いながら抱きとめる。
「こひな、番犬ごっこは終わり」
「終わってない顔してるな」
リビングのテーブルに寿司の容器を並べて、醤油皿を出す。
ココは最初から“ここは自分の席”みたいな顔で椅子の上に丸くなった。
「いただきます」
寿司って、なんでこんなにうまいんだろう。
母さんは茶碗蒸しを開けて、満足そうに息を吐いた。
「はあ……生き返る」
こひなは俺の膝に顎を乗せて、寿司の匂いだけで幸せそうにしてる。
ココは一口ももらえないのを分かってるのに、俺の箸の動きだけ追ってくる。
「見てもやらないぞ」
ココはしれっと瞬きをした。
聞いてない。
食べ終わる頃には、部屋の空気が柔らかくなっていた。
片付けは母さんが「いいから座ってな」と言うので、俺は素直に甘えた。
風呂を済ませて自分の部屋に戻ると、扇風機の風がちょうどいい。
ベッドに腰を下ろして、スマホを手に取る。
通知は特にない。
でも、指が自然に動いた。
ルネットを開く。
命のアイコンを開くと、屋上の無表情が思い出される。
あれでいて、距離は確実に近い。
言葉は少ないけど、いないと妙に落ち着かない。
明後日、空いてるなら。
俺は迷わず打った。
『命、明後日。暇か?』
送信。
既読は、すぐには付かない。
扇風機の音と、廊下のどこかで鳴る母さんの足音。
家の静けさの中で、俺は画面を見つめた。
少しして、既読が付いた。
少しだけ間が空いた後返事が来る。
『明後日、図書館で勉強するつもりでした』
続けて、もう一通。
『ハヤトさんも、来ますか?』
画面を見たまま、俺は小さく息を吐いた。
……そっちから誘ってくるのかよ。
「出かける」じゃなくて「勉強」なのが命らしい。
俺はすぐ返した。
『行く。何時にする』
送信して、スマホをベッドに落とす。
扇風機の風が頬を撫でるのに、胸の中だけ少し熱い。
数分後、また既読。
『午前の開館に合わせます。十時で』
きっちりしてる。
俺は笑って、短く返す。
『分かった。入口で待つ』
送って、机の上を見る。
宿題の束は片付いてる。自由研究の材料箱は棚の上。
明日は図書館。
静かな場所で、命と並ぶ。
その想像だけで、今夜が少しだけ軽くなった。
コン、とドアがノックされる。
「ハヤト、まだ起きてる?」
母さんの声。
俺は体を起こした。
「起きてる」
「麦茶。暑いでしょ」
沙織が二つのグラスを持って入ってくる。
ベッドの脇の机に、片方をことんと置いた。
沙織が顔を出して、俺のスマホにちらっと目をやる。
「誰と?」
「命」
名前を出した瞬間、母さんの眉がほんの少し上がった。
驚きというより、確認するみたいな顔。
「……あの御堂の?」
「そう」
沙織は一拍置いてから、ふっと笑う。
「へえ。……どこ行くの」
「別に。図書館行くだけ」
母さんは機嫌が良さそうに言った。
「明日、早いならちゃんと寝な。寝不足で変な顔したらもったいない」
「変な顔ってなんだよ」
「変な顔は変な顔」
沙織は笑って手を振ると、廊下に消えた。
俺はもう一度スマホを見る。
命から追加は来てない。
来てないのに、画面を閉じるのが少し惜しい。
「……俺も大概だな」
そう呟いて、明日の準備をする。
筆箱とノートを鞄に入れる。
ついでに、冷たい飲み物用に小銭も。
図書館は涼しい。
命は静か。
たぶん会話は多くない。
でも、それでいい。
ベッドに入って目を閉じると、昼の屋上で並んだ距離が思い出される。
無表情のまま、少しだけ近い命。
明日も、あの距離だ。
そして朝。
十時少し前に着くと、図書館の入口の前はまだ人が少ない。
涼しい風が自動ドアの隙間から漏れてくる。
しばらく待っていると、命が来た。
白いブラウスに落ち着いた色のスカート。
派手じゃない。けど、目が自然に行く。
命は俺の前で止まって、一礼する。
「おはようございます、ハヤトさん」
「おはよう。早いな」
「遅れる理由がありません」
淡々と言うくせに、俺の顔をちゃんと見ている。
それだけで、少し嬉しい。
自動ドアが開いて、冷房の空気が肌に触れた。
「涼しい」
俺が言うと、命は小さく頷く。
「……はい。だから、ここにしました」
理由を言っただけの顔。
でも、その中に俺を入れたのは命だ。
俺は歩き出しながら、短く言った。
「じゃあ、今日は一日ここだな」
命は一拍置いて、首を横に振った。
「一日かは、分かりません。疲れたら、切り上げます」
「いいよ。命のペースで」
命は無表情のまま。
でも、歩く速さがほんの少しだけ俺に合った。
それだけで、十分だった