駅前の図書館は、開館前から少しだけだがもう人がいた。
俺は入口横の柱の陰で待って、スマホをしまう。
ほどなくして、命が来た。
白いブラウスに落ち着いたスカート。派手じゃないのに、目が勝手に行く。
命は俺の前で止まり、一礼する。
命が顔を上げた瞬間、俺は思ったことをそのまま口にした。
「その服、似合ってる」
命は瞬きを一つ。
無表情のまま、返事が一拍遅れる。
「……ありがとうございます」
声は淡々としている。
でも、視線が一度だけ俺の顔から外れて、足元に落ちた。
「図書館っぽい。落ち着いてて、命らしい」
命は否定もしない。
ただ、ブラウスの袖口をほんの少しだけ摘んで、整え直す。
「……派手だと、目立ちますので」
「目立つのは、服のせいじゃないだろ」
命がまた一拍置く。
それから、いつもより小さな声で言った。
「……そういうことを言うのが、上手ですね」
「思ったこと言っただけ」
命は無表情のまま頷いた。
でも、歩き出す時、俺に合わせるみたいに歩幅が少しだけ揃った。
「おはようございます、ハヤトさん」
「おはよう。早いな」
「遅れる理由がありません」
淡々。いつもの顔。
でも、俺の目を一回ちゃんと見てから、視線を入口へ向ける。来るか、って言ってるのと同じだ。
開館時間になって自動ドアが開く。冷房の空気がふっと流れてきて、命が小さく息を吐いた。
「……涼しい」
「だろ。正解だな」
受付を抜けて、閲覧席の方へ向かう。
夏休みとはいえ午前は空いていて、窓際の席がいくつか空いていた。
命は迷わず、二人席の角を選ぶ。
向かい合わせじゃなく、並び。距離が近い席だ。
「ここ、いいですか」
「いいよ」
俺が座ると、命も隣に座った。
無表情のまま、鞄から筆箱とノートを出す。動きがいちいち丁寧で、机の上がすぐ整う。
「今日は、何をしますか」
「何って」
命は俺の方を向いて言う。
「ハヤトさんは、勉強をしに来たのでは」
「……まあ、そうだな」
「なら、範囲を決めてください。曖昧だと進みません」
刺さる。
命って、優しい顔はしないのに、必要なことは言う。
「じゃあ英語と、数学」
「分かりました」
命は自分のノートを開く。
俺の視界の端で、命の指先が紙の端を揃える。余計な音がしない。
しばらくは、ただ机の上の音だけが続く。
シャーペンの走る音、ページをめくる音。図書館の静けさが、ちゃんと静けさとして存在している。
落ち着く。
俺はこういう空間が嫌いじゃない。
ふと、命が俺のノートに視線を落とした。
「……そこ」
「ん」
「その問題、式は合っています。計算の途中で符号が変わっています」
「マジか」
俺が見直すと、本当にそこでミスってた。
命は指先で紙を叩きもしない。淡々と、行だけを目で示す。
「ここです」
近い。
肩が触れるほどじゃないのに、命が横にいるだけで意識する距離。
「助かった。ありがとう」
「当然です」
当然、って言う割に、命は一拍置いてから付け足す。
「……見直すのは得意です」
自慢じゃない言い方。
でも、少しだけ「役に立てる」ってことを言いたい感じがする。
「それ、才能だろ」
「……そうでしょうか」
命は視線をノートに戻した。
表情は変わらないのに、耳が少しだけ赤い気がした。気のせいかもしれない。
午前が一段落したところで、俺が小さく伸びをする。
「休憩するか」
「はい」
命もノートを閉じる。
ここで初めて、命が少しだけ疲れた顔をする。ほんの一瞬だけ目を細める程度だけど。
館内の自販機コーナーで、俺は冷たいペットボトルを二本買った。
命に一本差し出す。
「ほら」
「……ありがとうございます」
命は受け取ってから、ラベルを整えるみたいに指で撫でた。
飲む前に一拍置くのが命らしい。
ベンチに座ると、図書館の冷気と、夏の明るさのギャップが変に心地いい。
命は横で、ペットボトルの口を小さく傾ける。
「……外は暑いですね」
「だからここに来たんだろ」
「はい。正解でした」
その「正解」が、なぜか少し嬉しい。
「命はさ、自由研究どうするんだ」
俺が聞くと、命は即答した。
「決めています」
「早いな」
「夏休みの最初に決めないと、後回しになります」
俺も同じタイプだから、何も言い返せない。
「何やるんだ」
「図書館の本の分類を調べます。利用者が多い棚の傾向も」
命らしすぎる。
地味で、正確で、ちゃんと形になるやつ。
「なるほど。命っぽい」
「……褒めていますか」
「褒めてる」
命は少しだけ目を伏せて、短く言う。
「なら、よかったです」
休憩が終わって席に戻る。
午後は、命が自分の調査用に棚を見に行く時間が増えた。
「一緒に行くか」
「……来ますか」
命がそう言ったのが意外だった。
いつもなら一人で動いて、淡々と戻ってくるのに。
「行く」
俺が言うと、命は何も言わず歩き出す。
歩く速さが、ほんの少しだけ俺に合わせてある。
分類の棚を回りながら、命は小さなメモを取る。
俺は横で、背表紙を眺めるだけ。たまに面白そうな本を引っ張り出す。
「それ、読むんですか」
「興味本位で」
「そうですか」
☆
俺は本を閉じて言った。
「今日はここまでにするか」
命はすぐには答えない。
ほんの少しだけ迷う間があって、それから小さく頷いた。
「……はい」
立ち上がる。
席を片付ける時、命の指先が一瞬だけ俺の袖に触れかけて、止まった。
何も言わない。
何も起こらない。
でも、その一瞬が、やけに残る。
貸出カウンターで本を借りて、出口へ向かう。
自動ドアの前で、命が小さく言った。
「ハヤトさん」
「ん」
「……今日は、来てくれてよかったです」
命の口から「よかった」が出るのは、たぶん珍しい。
表情は変わらないのに、声だけ少し柔らかい。
「俺も、よかった」
外に出ると、暑さが戻ってくる。
時計を見ると、午後三時。思ったより早い。
「また、図書館」
俺が言うと、命は一拍置いて頷いた。
「……はい。予定が合えば」
命がそのまま帰ろうとしたので、俺は口を挟む。
「まだ三時だ。時間あるだろ」
命の足が止まる。
表情は変わらないのに、視線だけが俺に戻ってくる。
「……あります」
「じゃあ、ご飯食べに行こう」
「どこへ」
「近くにファミレスある」
命は一拍置いて、小さく頷いた。
「……はい」