恵が落ち着いた声で言った。
「離陸しますわよ。窓、見ておきなさい。綺麗ですから」
「うわ、恵、慣れてる……」
レンが小声で言って、すぐ窓に顔を近づける。
エンジン音が低くなる。
身体が座席に押される感じがあって、滑走路が流れていく。
「浮いた浮いた! やばい!」
レンが笑いながら手すりを掴む。
「これ、ジェットってこんな一瞬で浮くの!?」
「普通の飛行機も浮くよ」
「普通の飛行機と違うんだって! なんか、速い!」
確かに速い。
街が一気に小さくなって、海岸線が見える。
雲が近づいて、視界が白くなる。
「雲の中入った……」
日和が息を呑む。
「なんか……ゲームみたい」
レンはもうテンションが止まらない。
「これ、さ、俺たち今、“上”にいるんだよね!? 上! 空!」
「そうだな」
「やば……言葉にするとやばい……」
命は窓を見ていた。
表情は動かない。だけど、瞬きが少なくなってる。
集中して見てる時の顔だ。
雲を抜けると、世界が一気に明るくなった。
下には雲の海。上は青空。
「……やっぱり綺麗だね」
日和がぽつりと言って、レンの方を見る。
「レン君、これ見たら、騒ぎたくなる気持ち分かるでしょ」
「分かる! 分かるけど、やばい! やばいしか言えない!」
恵が少しだけ口元を上げる。
「その程度の語彙は許しますわ」
命は無表情のまま窓を見ている。
でも、瞬きが少なくなってる。集中して見てる時の顔だ。
「写真撮っていい!? ね、撮っていいよね!? 絶対撮る!」
恵が笑いそうになりながら、でも涼しく言った。
「どうぞ。壊れませんわ」
「壊れる心配してないよ!」
レンと日和が撮り合って、意味なく笑って、俺にも向けてくる。
「隼人も撮ろ! はい、こっち!」
「いい」
「いいじゃない、記念!」
結局撮られて、俺は苦笑する。
その横で命が小さく言った。
「……楽しそうですね」
「命も楽しいだろ」
命は一拍置いて頷く。
「……はい。少しだけ」
しばらくして、機内の飲み物や軽食が出てくる。
レンがまた声を上げる。
「え、これ……普通にうまそう」
「普通にうまいんじゃない?」
「機内食ってもっとこう、固いパンじゃないの?」
「それ、偏見」
恵が淡々と言う。
「食べなさい。到着したら、すぐホテルですわ」
その言葉の直後、窓の下に海が見えた。
青が強い。水平線がはっきりしてる。
「うわ……!」
レンが声を上げて、日和も同時に笑った。
「海だ……! すっご……」
命は言葉を出さない。
でも、俺の横で小さく息を吸ったのが分かった。
この時点で、もう旅行は始まってる。
恵が作ったのは、こういう“テンションが上がるスタート”なんだろう。
そして、着陸の準備が始まる。
レンが最後までうるさい。
「え、もう着くの!? はや!」
「一週間あるんだから落ち着け」
俺がそう言うと、恵が当然みたいに言った。
「帰りも乗りますわよ」
「うそ」
レンが叫んだ。
「やった!」
命が一拍置いて、小さく言った。
「……贅沢です」
でも、その声がちょっとだけ明るい。
機体がゆっくり降りていく。
海の色が近づいて、島影みたいなものが見えた。
着陸の衝撃は小さくて、拍子抜けするくらい静かに止まる。
扉が開いて、潮の匂いが一気に入ってきた。
空気が熱い。でも、肌にまとわりつかない。風がちゃんと通る場所だ。
「うわ、匂いがもう海だ」
レンが深呼吸する。
日和は笑いながら、少しだけ目を細めた。
「うん、懐かしい。夏って感じする」
恵は何も言わない。
ただ、少しだけ口元を上げている。反応を見てる顔だ。
命は無表情のまま外を見て、帽子のつばを指で整えた。
俺は恵の横に並んで、小さく聞く。
「で、どこ行くんだ」
恵は目だけで俺を見る。
「まだですわ」
「まだ?」
「着いてからのお楽しみ。サプライズは、段階が大事ですもの」
レンが聞きつけて身を乗り出す。
「え、なにそれ。怖いんだけど」
「怖がる必要はありませんわ。期待しなさい」
日和が笑う。
「恵、そういう言い方ずるい」
恵は当然みたいに頷いた。
「ずるくて結構ですわ。あなたたちの夏休みは、私が“いい感じ”にして差し上げます」
命が小さく言う。
「……言い切りました」
「言い切ります」
恵は涼しい顔でそう言って、歩き出した。
スタッフがすでに待っていて、荷物はいつの間にか運ばれていく。
俺たちは恵について行くしかない。
でも、みんなの顔が少し明るい。
これから何が出てくるのか。
恵が何を用意しているのか。
まだ何も聞かされてないのに、楽しいが先に来てる。
そういう始まりだった。
「荷物、どこ行った」
レンが慌てて振り返る。
「行ったよ」
日和があっさり言う。
「行ったって……行ったって何!? 俺の荷物!」
「ちゃんと行った。多分、先に着く」
恵が涼しい声で言った。
「荷物の心配をする時間があるなら、景色を見ておきなさい」
「景色は見るけど荷物も心配!」
レンの騒ぎに、日和が笑う。
命は何も言わない。でも、レンの方を一瞬だけ見た。たぶん同情ではなく確認だ。
車に乗り込むと、冷房の空気で一気に体が落ち着いた。
窓の外はもう島の空気だ。潮の匂いが濃いのに、どこか整っている。
「……で、恵。どこなんだ、ここ」
俺が聞くと、恵は涼しい顔のまま言う。
「“どこ”というより、“ここ”ですわ」
「は?」
レンが間抜けな声を出す。日和は笑って、ちょっとだけ言葉を選んだ。
「えっとね。ここ、恵のところの島」
「……島?」
レンが一拍遅れて理解して、声がひっくり返る。
「え、島って……旅行先の島じゃなくて、“島”!?」
恵が当たり前みたいに頷く。
「ええ。私の家の管理するリゾート島ですわ。運営もこちらでしています」
「運営!? 島を!?」
「レン、声」
命が小さく言う。無表情のまま。
でも、耳がほんの少しだけ赤い。たぶんレンの声量に反応してる。
車は空港の敷地を抜けて、島のメイン道路へ出た。
海が見える。白い壁の低い建物が並んでる。道も街灯も手入れされてる。
“観光地のにぎやかさ”じゃない。生活と運営がちゃんとある静けさだ。
レンが窓に貼りついて、信じられない顔で言う。
「島って、こういう……全部が恵の……?」
「全部、という言い方は雑ですわね」
恵が淡々と返す。
「島は島。ここで働く方々がいて、運営があります。私はその管理側にいるだけですわ」
日和が肩をすくめる。
「恵、こういうとこだけ急に真面目」
「真面目で結構ですわ」
車が緩やかな坂を上る。
前方に、門みたいなゲートが見えた。そこを抜けた瞬間、空気がさらに静かになった。
植栽も、道の端も、全部が“整ってる”。
「……やば」
レンが三回目の「やば」を小声で言う。
日和は慣れてるのに、普通に嬉しそうだ。
「ここ来ると、夏休みって感じするんだよね」
命は何も言わない。
ただ、窓の外を見て、帽子のつばを指で整えた。落ち着かないときの癖。
でも今日は、悪い落ち着かなさじゃない。
やがて車寄せ。
建物は“ホテル”の派手さじゃなくて、島の中心施設みたいな落ち着いた外観。
それでも一歩入ると分かる。金がかかってる。静かに。
スタッフが並んで待っていて、恵に深く頭を下げた。
「九条様、お帰りなさいませ。ご滞在のご用意は整っております」
レンが俺の袖を引っ張る。
「お帰りなさいませって……島に帰ってきた人のやつじゃん……」
「そういうことだな」
恵は軽く頷くだけで、受付は終わる。
説明もない。署名もない。必要なことは全部、先に済んでる。
恵がこちらを振り返って、少しだけ得意げに言った。
「サプライズの段階、次に進みますわ」
「まだあるの!?」
レンが反射で叫んで、命が小さく言う。
「……レン、静かに」
「はい……」
エレベーターで上へ。
数字が上がるほど、廊下が静かになる。足音が消える。
恵が廊下の端で止まった。
スタッフが扉に触れると、鍵の音も立てずに開く。
「……こちらでございます」
恵が俺たちを見る。
口元は笑ってないのに、目だけが“ほら”って言ってる。
「ここが、皆さんの部屋ですわ」
扉が開いた瞬間、レンが息を止めた。
広い。明るい。
窓の向こうに海がある。海が“額縁”に入ったみたいに固定されて見える。
リビングがあって、テーブルがあって、ソファがあって、奥に寝室が複数ある。
「……え、これ、何人用」
レンの声が震える。
「皆さん用ですわ」
「皆さん用って、どの皆さん!?」
日和がくるっと見回して、笑った。
「……最上級?」
恵は一拍置いて、さらっと言う。
「島の中で最上級クラスですわ。押さえてあります」
「サプライズ、重すぎる!」
レンが崩れ落ちそうになる。
命は無表情のまま窓の前まで歩いて、立ち止まった。背中がまっすぐ。
海を見ているだけなのに、少し落ち着いて見える。
恵が俺の隣に来て、低い声で言った。
「まずは部屋を決めましょう。疲れを残したくありませんの」