朝。カーテンの隙間から光が差してきて目が覚めた。
島の朝は静かだ。潮の匂いが薄くて、空気が軽い。
ベッドの向こうでレンが起き上がって伸びをする。
「おはよ、ハヤト。……今日、海だよね」
「そうだな」
「よし。じゃあ僕、勝ち」
「だから勝ちってなんだよ」
レンは笑って、昨日買った袋を指でつついた。
「だって水着買ったし。もう勝ちでしょ」
スマホが震えた。恵からだ。
『9時半、ロビー。海に行きますわ。遅れないで』
レンが覗き込んで、すぐ姿勢を正す。
「はい……じゃなくて、了解!」
ロビーに降りると、もう全員揃っていた。
恵は当然みたいに立っていて、日和は落ち着いた顔。命は無表情で、帽子のつばを指先で整えている。
恵が言う。
「朝食を済ませて、海へ行きます。荷物は最小限。水とタオル、羽織り。以上ですわ」
「指示が早い」
日和が笑うと、恵は気にしない。
「迷う時間がもったいないですもの」
命が小さく頷いた。
それだけで“ついていける”感じがする。
朝食はテラスだった。
軽いパンと果物、ヨーグルト。これなら本当に軽い。
レンが食べながら、日和をちらっと見る。
言いたいことがある顔。でも言わない。今日は海が先だ。
命は静かに水を飲んでいた。
目線が時々、海の方へ動く。落ち着かないのが分かる。
俺は短く言う。
「命、行けそう?」
命は一拍置いて、丁寧に答えた。
「……はい。大丈夫です、ハヤトさん」
昨日の続きだ。
その言い方が、少しだけ強い。
ビーチへ向かう車の中。
レンは窓の外を見て、もう泳いでるみたいな顔をしてる。
「今日、僕、ちゃんと泳ぐから」
「見せたい相手がいるからか」
「……うん」
レンは照れ隠しもしないで頷いた。
日和はそれを聞いて、何も言わずに笑った。
命は窓の外を見ている。
表情は読めない。でも、指先が膝の上で一度止まる。緊張してる。
俺は声を落として言った。
「命、無理しなくていい」
命はすぐ返す。
「……はい。でも、今日は行きます」
それで十分だった。
プライベートビーチ。
砂が白くて、波の音が一定。人はいない。視線が少ないだけで空気が違う。
更衣のスペースはちゃんと用意されていた。
スタッフが案内して、それぞれ着替える。
先に出てきたのは恵だった。
ホルターネックのビキニ。首の後ろで結ぶタイプで、ラインがすっきりしている。色は落ち着いた大人っぽいトーンで、装飾は最小限。光沢のある生地が日差しを受けても派手にならず、ただ“良いもの”だと分かる。
恵は羽織も迷わず脱いで、砂浜にタオルを広げた。
動きが速いのに雑じゃない。自分の見え方も、周りの動きも、全部把握しているみたいだ。
「さあ、行きますわ」
その一言だけで、場が整う。
「さあ、行きますわ」
「恵、強すぎ」
次に出てきたのが日和だった。
レースアップの水着で、胸元の編み上げがさりげなくアクセントになっている。派手じゃないのに、近くで見るとちゃんと可愛い。色は白色だ、日和の雰囲気に合っていた。
日和が砂浜に出てきたのを見て、レンが一瞬止まった。
それから、声を落として言う。
「……日和、すごく似合ってる」
「え」
日和が目を丸くして、すぐ視線を逸らした。
耳が赤くなる。
「ちょ、レン君……いきなり言うの、ずるい」
「そう思ったんだ」
「……やめて。恥ずかしい」
日和は笑おうとして、うまく笑えなくて、口元を手で隠した。
レンはそれを見て、少しだけ安心した顔をする。
それから、いつもの調子に戻すみたいに言った。
「でも、ほんとに。今日、いい日だね」
「……うん」
日和は小さく頷いて、まだ赤いまま海の方へ歩き出した。
日和は肩を軽く回して、砂の感触を確かめるみたいに一歩踏む。
緊張してる様子はない。いつも通りの自然体で、でも“海用の顔”になっている。
「よし。準備できた」
日和はそう言って笑い、レンの方を見た。
「レン君、いきなり沖はなしね」
「レン君、準備できた?」
「できた!」
レンはサーフパンツにラッシュガード。昨日の選び方どおり、青色のグラデーションだ。
でも顔はずっと楽しそうだ。
最後に出てきたのは命だった。
三角ビキニ。
形はシンプルで、柄もほとんどない。余計な主張がなくて、逆に命らしい。
ただ──本人は落ち着いていない。
表情は読めないままなのに、歩幅が小さい。砂の上を一歩ずつ確かめるみたいに歩く。指先が何度も、自分の手元を整えようとして止まる。
俺と目が合った。
命は止まって、短く言う。
「……変では、ないですか」
俺はすぐ答えた。
「変じゃない。似合ってるよ」
命は一拍置いて、息を小さく吐いた。
それから、視線を少しだけ外して言う。
「……ありがとうございます、ハヤトさん」
耳がほんの少し赤い。
命はそのまま、波の方へ向き直った。
目立たない水着なのに、ちゃんと命らしさが出ていた。
命は歩いてきて、俺の前で止まった。
表情は読めない。けど、耳が少し赤い。
「……どうですか」
聞き方が丁寧すぎる。
でも、聞いてる内容は一つだ。
俺は短く言った。
「変じゃない。命らしい」
命は一拍置いて、小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
それから、すぐ目を逸らして、波の方を見る。
「……行きましょう」
海に近づくと、レンが先に走った。
「うわ、冷たっ! 最高!」
「レン君、転ぶな!」
日和が笑いながら追う。
「レン君、いきなり深いとこ行かないでねー」
「はーい!」
恵は砂浜にパラソルの位置を決めて、タオルを置く。
“遊び”でも段取りを崩さない。
「ここが拠点ですわ。荷物はここ。飲み物はここ。忘れないで」
「はいはい」
日和が軽く返して、海へ。
命はまだ砂浜にいる。
波打ち際を見ている。
俺は隣に立った。
「入る?」
命は小さく頷く。
「……はい。ですが、少しだけ」
命は足先だけ水に入れた。
肩が一瞬だけ跳ねる。でも、すぐ戻す。
「……冷たいですね」
「冷たいな」
命はもう一歩入った。
膝下まで。そこまで来ると、呼吸が少し落ち着いた。
水面の光が反射して、命の白い水着姿がよく映える。
白が眩しいのに、命はそこに立っているだけで静かだった。
命は目を逸らしたまま、波の音に合わせて息を整える。
表情は読めない。でも肩が少しだけ固い。
「……見ないでください」
小さな声。丁寧なのに、急いで言った感じがする。
「見てない」
「見ています」
命はそう言ってから、自分でも言いすぎたと思ったのか、口を閉じた。
耳が赤い。
俺は短く言う。
「奇麗だよ」
命は一拍置いて、何も言わない。
その代わり、視線だけがこちらに戻る。すぐ外れる。落ち着かない。
「……ありがとうございます、ハヤトさん」
命はそれだけ言って、足先で水を触った。
冷たさに一瞬だけ肩が跳ねる。すぐ戻す。強がりじゃない。整える癖だ。
日和が少し離れたところから声をかける。
「命、ゆっくりでいいよ。浅いとこ一緒に行こ」
「……はい」
命は頷いて、もう一歩だけ前に出た。
水が足首を越えて、引いていく。砂がさらさら動く。
レンが沖の方で手を振る。
「命ー! こっち、ちょうどいい! 波が押してくれる!」
「レン、声!」
恵の声が砂浜から飛んできて、レンがすぐ小さくなる。
「……はい!」
日和が笑って、命の隣に立った。
「ほら、同じくらいまで。いける?」
命は小さく息を吐いて、頷く。
「……いけます」
命の白が、波の白と重なる。
同じ白なのに、命のほうが輪郭がはっきりして見えた。
命がもう一度、俺を見る。
視線が少しだけ長い。
「……顔に出さないでください」
「出してない」
「出ています」
命はそう言って、やっと少しだけ口元を緩めた。
笑ってはいない。でも、柔らかい。
命はそのまま、もう一歩。
水が膝まで来て、波がふくらはぎに当たった。
驚いた顔はしない。
ただ、指先が一度だけ握られて、すぐ開く。
「……海は」
命が小さく言う。
「……思ったより、静かですね」
「人がいないからな」
「……はい」
波が足に当たって、引いていく。
俺は言った。
「行こう」
命は小さく頷いた。
「……はい、ハヤトさん」
海デビューは、派手じゃなくていい。
命は今、ちゃんと前に進んでる。