命は浮き輪を抱えたまま、浅瀬に立っていた。
白い水着が濡れて、少しだけ色が深くなる。本人はそこに気づいて、視線を落とす。
命は小さく息を吸って、浮き輪を水に浮かべた。
浮き輪がふわっと浮く。命はそこに手を置く。
「……浮きますね」
「浮くよ」
日和が隣に立って、同じように水に手をつけた。
「命、足つく? 大丈夫?」
「……はい。つきます」
命は一歩進んで、浮き輪に少し体重を預けた。
波が来て、浮き輪が揺れる。命の身体も揺れる。
命は驚いた顔をしない。
ただ、指先がぎゅっと握られて、すぐ開く。
俺が少し離れたところから見ると、命がこっちを見た。
視線が一瞬だけ長い。
「……顔に出さないでください」
命が小さく言った。
「出してない」
「出ています」
俺は少しだけ視線を逸らした。
「……分かった」
命はそれで安心したみたいに、息を吐く。
日和が命の肩を軽く叩く。
「いい感じ。もう慣れてきた」
「……慣れ、ですか」
「うん。慣れ」
命は頷かない。
でも、浮き輪に体を預ける時間が少し長くなった。
恵は砂浜に椅子を置いて、日差しの角度を見ていた。
遊んでるのに、目が全部を見ている。
俺が戻ると、恵が言う。
「ハヤトさん、次は」
「何」
「写真、撮ってもいい?」
日和がすぐ言った。
「命、嫌ならやめるよ」
命は一拍置いてから、丁寧に言った。
「……少しだけなら」
レンが海から戻ってきて、息を弾ませる。
「写真? 撮ろ!」
日和がレンの頭を軽く押した。
「レン、声」
「……はい」
恵がスマホを構える。
「では、並んで」
みんなが浅瀬に集まる。
命は端に立とうとする。目立ちたくないから。
でも、日和が自然に命の隣に入って、位置を整えた。
恵が一言。
「命、逃げない」
「……逃げません」
短い返事。
でも命は、ちゃんとそこに立った。
恵が言う。
「撮ります。笑って」
レンが笑う。日和も笑う。
恵は笑わないのに、目だけが楽しそうだ。
命は――笑わない。
でも、口元がほんの少しだけ柔らかい。
シャッター音が一回。
午後の海が、写真に閉じ込められた。
写真を撮り終えると、恵がスマホを下げた。
「はい、解散ですわ。休憩して、水分を取りなさい」
「急に現実」
日和が笑い、レンは海水を払って頷いた。
「……はい」
恵が即座に言う。
「レン、偉いですわ」
「恵、うるさい!」
でもレンの顔は嬉しそうだった。
しばらくして、俺たちは砂浜の拠点に戻った。
タオルに座ると、体の芯がやっと落ち着く。海の疲れって、あとから来る。
命は端に座って、膝を抱えない程度に姿勢を整えていた。
白い水着が乾きかけて、光の反射が少し弱くなる。落ち着いた色に戻っていく。
日和が命の横にしゃがむ。
「命、どう? 疲れてない?」
「……疲れています。でも、嫌な疲れではありません」
「うん、それならよかった」
命は一拍置いて、俺の方を見た。
表情は読めないけど、視線がちゃんと合う。
「……ハヤトさん」
「ん?」
「……さっきの写真。変では、なかったですか」
俺は短く答えた。
「変じゃない。ちゃんと写ってる」
命は少しだけ息を吐いた。
「……ありがとうございます」
それだけで、命はもう大丈夫そうだった。
レンは波打ち際で最後に軽く水を浴びて、戻ってきた。
髪をかき上げながら、日和の前で止まる。
「日和。今日は、ありがと」
「え、なに。急に」
日和が目を丸くする。耳が赤い。
レンは言い切る。
「一緒にいてくれた。僕、楽しかった」
「……うん。私も」
日和は視線を逸らして、照れたまま笑った。
恵がタオルに座ったまま言う。
「レン様、いい顔してますわ」
「恵、黙って!」
恵は肩をすくめる。
「褒めてますの」
恵が立ち上がった。
「今日はここまでですわ。戻ってシャワーを浴びて休みなさい。夕方までは自由で結構です」
「はーい」
日和が返し、レンも続く。
「……はい」
命も小さく頷いた。
「……はい」
部屋に戻ると、冷房がちょうどいい。
砂を落としてシャワーを浴びるだけで、体が一気に軽くなる。
レンは髪を拭きながらソファに沈んだ。
「海ってさ……疲れるのに、また行きたくなるね」
「分かる」
「明日も行きたい」
「明日も行くかは恵次第だろ」
「恵、絶対行かせるよ。だって恵だもん」
レンはそこで一回黙って、声を落とした。
「……今日さ。日和、照れてた」
「見てたな」
「うん」
レンは嬉しそうに笑って、それ以上は言わなかった。
言葉を貯めてる顔だった。
夕方。
ロビーのラウンジに降りると、命が先にいた。水を飲んでいる。
俺が近づくと、命は立ち上がって丁寧に言った。
「……お疲れさまでした、ハヤトさん」
「お疲れ」
命は一拍置いてから、小さく言う。
「……今日は、海に入れました」
「入れたな」
「はい。……恥ずかしかったですが」
そこで命は視線を外す。
でも、逃げない。
「……それでも、大丈夫でした」
「何で」
俺が聞くと、命は少しだけ考えて、短く答えた。
「ハヤトさんが、変なことを言わないからです」
「言わない」
「……はい」
命は小さく頷いて、水を一口飲んだ。
その動きが、昼より落ち着いている。
そこへ日和の声がした。
「ハヤトさん、命。ここいた」
日和がやってきて、続けて恵も来る。レンも一緒だ。
恵が言う。
「夕食は部屋でいいえですわ。今日は疲れていますでしょ」
「珍しく優しい」
日和が笑う。
「優しいっていうか、正しい」
恵は涼しい顔で言った。
「正しいのがわたくしですわ」
レンが小声で言う。
「……今日、良い日だったね」
日和が一瞬だけ照れて、すぐ笑った。
「うん。良い日」
命は無表情のまま、でも小さく言った。
「……はい。良い日でした」
俺はそれを聞いて、短く思った。
初日の海は、これで十分だ。
明日から、もう少しだけ前に進めばいい。