朝は昨日より涼しかった。
海の匂いが近いのに、空気が軽い。
ロビーに降りると、恵がもう立っていた。帽子もサングラスも完璧で、表情は涼しいまま。
「おはようございますわ。今日は船ですの」
「船?」
レンが目を丸くする。
「クルーザーを出しますわ。フィッシング。貸し切りです」
「え、釣り!?」
レンがそのまま笑って、両手を上げた。
「やった! 僕、釣る! でっかいやつ!」
日和が笑う。
「朝から元気だね」
「元気! 海の上は元気になる!」
恵は気にせず続けた。
「道具は用意してあります。服は濡れてもいいもの。日焼け対策も忘れないこと。以上ですわ」
命は無表情で頷いた。
ただ、視線が少しだけ海の方へ動く。落ち着く系の予感がしている顔だ。
日和が俺の方を見る。
「ハヤトさん、酔いとか大丈夫?」
「大丈夫」
「命も? 船」
命は一拍置いて、丁寧に答えた。
「……大丈夫です。静かなら、むしろ助かります」
「うん、静かだよ。釣りだし」
レンがすぐに割り込む。
「僕、釣る! 大きいやつ!」
「欲張りすぎですわ」
恵がさらっと斬る。
港までの移動は車だった。
窓の外に桟橋が見えてきて、レンが身を乗り出す。
「うわ、ほんとにクルーザー……」
白い船体。派手じゃないのに、きれいで大きい。
スタッフが待っていて、恵を見るなり頭を下げた。
「九条様。出航の準備は整っております」
「ええ。お願い」
恵は当然みたいに頷く。
乗り込むと、船の中は静かだった。
冷えた水が用意されていて、タオルも揃っている。釣り具がきれいに並んでいた。
レンが小声で言う。
「釣りって、もっとこう……泥臭い感じじゃないんだ」
「恵が用意したんだ。普通の釣りじゃない」
俺が言うと、レンは納得して頷いた。
「だよね」
日和が笑う。
「レン、手、洗わなくて済みそうで良かったね」
「それは失礼!」
船が動き出す。
エンジンの音が小さくて、海の音の方が大きい。
命は手すりの近くに立って、海を見ていた。表情は読めない。
でも肩が少し楽そうだ。波の音が一定だからだろう。
俺が隣に行くと、命は小さく言った。
「……海の音は、落ち着きます」
「分かる」
「昨日より、静かです」
「今日は人が少ない」
命は頷いた。
「……こういう海なら、平気です」
短い。けど、安心の言葉だった。
ポイントに着くと、スタッフが手早く準備をした。
竿の持ち方、糸の出し方、餌の付け方。説明は短く、分かりやすい。
「力を入れすぎないでください。魚が来たら、ゆっくり巻きます」
「分かった!」
レンが元気に返事をする。
「……分かりました」
恵がレンを見る。
「レン、あなたは“派手に釣る”より、まず落ち着いて」
「落ち着いて派手に釣る!」
「矛盾ですわ」
日和が笑う。
「でもレン君っぽい」
釣りが始まると、時間がゆっくり進んだ。
波、風、糸の張り。目と手が静かになる。
命は竿を持ったまま、姿勢がきれいだった。
あまり動かないのに、ちゃんと“待つ”ができる。
命が小さく言った。
「……これ、好きかもしれません」
「釣り?」
「はい。静かです。考えすぎなくて済みます」
その言い方が命らしくて、俺は短く頷いた。
「合ってるな」
命は一拍置いて、少しだけ視線を外す。
「……ハヤトさんが、変な顔をしないからだと思います」
「またそれか」
「はい」
命は淡々と言い切って、少しだけ耳が赤い。
本人は気づいてないふりをして、海を見る。
そのとき、レンの竿がぐっと引かれた。
「え、きた! きた!」
「レン、落ち着いて!」
日和がすぐ横で支える。
「巻いて! ゆっくり!」
「ゆっくり……ゆっくり……!」
レンは真剣な顔で巻いた。
糸が張って、竿がしなる。
レンの口が小さく開いた。
「……日和、見てる?」
日和は一瞬だけ止まって、すぐ頷く。
「見てる。ちゃんと見てる」
レンがその一言で笑った。
釣りの最中なのに、顔が嬉しそうになる。
「……よし!」
水面が割れて、小さめだけど綺麗な魚が上がった。
「釣れた!」
レンが声を上げかけて、日和が指を立てる。
恵が腕を組んだまま言う。
「レン、合格ですわ」
「合格!?」
「落ち着いて釣れましたもの」
レンは魚を見て、子どもみたいに喜んだ。
日和は照れたまま、でも嬉しそうに笑っていた。
命はその様子を見て、何も言わない。
けれど、口元がほんの少しだけ柔らかい。
船の上の時間は、静かで楽しい。
海は青くて、波は小さい。風が一定で、糸がまっすぐ落ちる。
スタッフが竿を四本並べて言う。
「竿は軽いものです。糸が引かれたら、慌てずに巻いてください。分からなければ声をかけてください」
「分かった!」
レンが即答して、竿を取る。
日和も続く。恵は迷いなく手袋をはめた。命は一歩遅れて竿を持つ。動きが丁寧だ。
俺は命の隣に立った。
「困ったら言え」
「はい、ハヤトさん」
命はそう言って、海面を見た。
深さを測るみたいな目だった。
レンの次に反応が出たのは恵だった。
恵は竿先が小さく震れた瞬間、指で糸を止めて、短く巻き始めた。
「来ましたわ」
声は落ち着いている。
引きに合わせて、一定の速さで巻く。迷いがない。
日和が感心した顔で言う。
「恵、慣れてるね」
「慣れていませんわ。教えられた通りにやっているだけですの」
「それができるのがすごい」
恵は表情を変えずに、最後まで巻き切った。
小ぶりの魚が上がる。綺麗な色だ。
「一匹目ですわ」
恵はさらっと言って、スタッフに渡す。
レンが目を輝かせた。
「え、恵すご! じゃあ僕も!」
レンは糸を落とすと、じっと待てなくて竿先を見つめ続けた。
波が揺れるたびに「今!?」って顔になる。
「レン、焦りすぎ」
日和が笑って言う。
「焦ってない。集中してる!」
「集中、顔に出すぎ」
日和が言い終わる前に、レンの竿がぐっと引かれた。
「え、きた! きた!」
レンは反射で巻き始めて、勢いが強い。
「ゆっくり!」
日和が横から声をかける。
「竿立てて。そう。落ち着いて、落ち着いて」
レンは日和の言葉を聞いて、すぐ速度を落とした。
顔が真剣になる。竿がしなる。
レンが小さく言う。
「……日和、見てる?」
日和は一瞬だけ止まって、すぐ頷いた。
「見てる。ちゃんと見てる」
レンはその一言で笑った。
そして最後まで巻き切って、小さめだけど綺麗な魚が上がる。
「釣れた!」
レンは素直に喜んで、日和も笑った。
「うん。釣れた」
レンは魚を見て、嬉しそうに言う。
「僕、今、ちょっとだけかっこよかった?」
「……ちょっとじゃない」
日和が照れて目を逸らす。
レンはそこで黙らずに、笑って頷いた。
「よし」