命は少し離れたところで、静かに竿を持っていた。
動かない。焦らない。視線だけが海面を追っている。
恵が命を見て言う。
「命さん、上手ですわ。待てていますもの」
「……ありがとうございます」
命は丁寧に返した。
でもその直後、竿先がほんの少しだけ沈んだ。
命の指先が止まる。呼吸も止まる。
次の瞬間、ぐっと引かれる。
「……来ました」
命の声は小さい。
でも確かに来ている。
俺が言う。
「慌てなくていい。ゆっくり巻け」
「はい」
命は言われた通り、一定の速度で巻き始めた。
表情は読めない。でも動きが少しだけ硬い。緊張してる。
日和が近づいて、小さく言う。
「命さん、できてる。今のペースで」
命は頷かない。
でも巻く手が乱れない。
水面がきらっとして、魚が見えた。
命はそこで初めて、目を瞬かせた。
「……見えました」
「そのまま」
俺が言うと、命は最後まで巻き切った。
魚が上がる。レンより少し大きい。
レンが目を丸くする。
「命さん、すご! 命の方が大きい!」
命は無表情のまま、でも小さく言った。
「……偶然です」
「偶然じゃないよ!」
日和が笑って言う。
「命さん、初めてで釣るの普通にすごい」
命は一拍置いて、丁寧に返した。
「……ありがとうございます」
その声は淡々としてるのに、少しだけ軽かった。
俺の竿にも反応が来た。
引きは強くない。でもちゃんと魚だ。
「ハヤトさんも来た?」
日和が聞く。
「来た」
俺が巻くと、恵がさらっと言う。
「全員釣れましたわね。良い日ですの」
「恵、今日ずっと良い日って言ってる」
日和が笑うと、恵は涼しい顔で返す。
「事実ですわ」
レンは船縁に並んだクーラーボックスを見て、満足そうに息を吐いた。
「……みんなで釣ったって感じ、いいね」
日和が小さく頷く。
「うん。いいね」
命は海を見て、短く言った。
「……楽しいです」
波の音と、糸の張り。
船の上の時間は、ゆっくりなのに、ちゃんと進んでいた。
そのあとも、魚はぽつぽつ来た。
恵は淡々と釣って、数を増やす。
「次も来ましたわ」
「恵、強い」
日和が笑うと、恵は涼しい顔のまま返す。
「騒がないだけですわ」
レンは一回釣るたびに嬉しそうにして、でもちゃんと落ち着いて巻くようになった。
「今の、僕うまい」
「うん。うまい」
日和が言うと、レンが照れた顔で笑う。
命も二匹目、三匹目と増やしていく。
無表情のまま、手だけが確実になっていく。
「……また来ました」
「ゆっくりでいい」
俺が言うと、命は小さく頷いて、一定の速度で巻いた。
気づけば、クーラーボックスの中がにぎやかになっていた。
“みんなで釣った”って分かる量だ。
レンが満足そうに言う。
「ねえ、これ、昼ご飯になるよね?」
恵が即答した。
「なりますわ。むしろ、そうするために釣っていますの」
「最初からそうだったんだ」
日和が笑う。
「恵、こういうとこは計画的」
「当然ですわ」
港に戻ると、スタッフがすぐ動いた。
魚はキッチンへ。俺たちは手を洗って、海が見えるテラスに通される。
テーブルには、冷えた水と、パンと、サラダが先に置かれていた。
待ってる間に空腹が加速する。
レンが落ち着かない。
「僕の魚、どうなるのかな」
「美味しくなる」
日和が即答する。
「レン君、待てる?」
「待てる!」
命は静かに座っていた。
でも、料理が出てくる方向を一度だけ見て、すぐ戻す。少しだけ期待してる。
やがて皿が運ばれてきた。
焼いた魚。レモン。ハーブ。
それと、軽いフライにした魚のプレート。ソースは別。匂いがいい。
恵が言う。
「塩とレモンで十分ですわ。余計な味は要りませんの」
「うまそう……」
レンは一口食べて、すぐ顔を上げた。
「うまい! え、僕が釣ったやつ、うまい!」
「自分で釣ったからな」
俺が言うと、レンは満面の笑みになる。
「最高。僕、今日ずっと勝ち」
「ずっと言ってるなそれ」
日和が笑う。
「でも、勝ちだね」
命も一口食べて、一拍置いて言った。
「……おいしいです」
淡々としてるのに、ちゃんと嬉しそうな声だった。
恵が満足そうに頷く。
「良い昼ですわね」
「うん」
日和が頷いて、レンは照れたまま食べ続ける。
食べ終わるころ、恵が水を一口飲んで言った。
「午後はダイビングですわ」
「ダイビング!?」
レンが即反応する。
「え、潜るやつ!?」
「ええ。体験コースですの。インストラクター付き。危ないことはしませんわ」
日和が確認する。
「浅いとこ?」
「浅いところからですわ。嫌ならやめていい。無理はさせませんの」
命が小さく言った。
「……体験、なら」
「命、やる?」
日和が聞くと、命は一拍置いて答えた。
「……やってみたいです。静かなら」
俺は命を見る。
「大丈夫そう?」
命は丁寧に言う。
「はい。ハヤトさんがいるので」
短いけど、はっきりしてる。
レンが笑って言った。
「よし! 午後も勝ち!」
「勝ちじゃないですわ。安全第一ですの」
恵がぴしゃっと言うと、レンは素直に頷いた。
「はい!」
「よろしいですわ」
恵は涼しい顔のまま、念押しする。
「午後は“予定”ですの。体調と気分次第で変えます。無理に潜って、明日を潰す方が最悪ですわ」
日和が笑う。
「恵、たまに先生みたい」
「先生で結構ですわ」
レンが手を上げる。
「質問!」
「どうぞ」
「ダイビングって、僕でもできる? 息、苦しくならない?」
日和が横から答えた。
「体験なら大丈夫だよ。怖くなったら上がればいいし」
レンは頷く。でも、顔がちょっとだけ真剣になる。
「……日和、隣にいてくれる?」
日和が一瞬止まって、すぐ笑った。耳が赤い。
「うん。ついてる」
「よし」
レンは小さく息を吐いて、さっきより落ち着いた顔になる。
命が小さく言う。
「……ダイビングって、どんな感じなんでしょう」
「慣れるまではバタバタするけど、慣れたら落ち着くと思う」
「……そうなんですね。少しだけ、やってみたいです」
俺は命を見る。
「嫌ならやめていい」
「はい。ですが……やってみたいです」
短い言い方。
でも命にしては、はっきりしている。
恵が満足そうに言った。
「よろしいですわ。では午後は一度休憩。日差しが強い時間は、体力を温存します」
「昼寝?」
レンが聞くと、恵は当然みたいに答える。
「昼寝でも読書でも構いませんわ。夕方、軽く散歩してもいい。各自ですの」
日和が頷く。
「午後に詰め込みすぎないの、正解だね」
「当然ですわ。余裕がないと、楽しくありませんもの」
レンが小声で言う。
「……恵さん、たまに優しい」
「たまにとは失礼ですわ」
恵は涼しい顔のまま、でも少しだけ機嫌がいい。
「私は常に皆さんのために動いていますの。感謝なさい」
「感謝します!」
レンが即答して、日和が笑う。
「レン君、素直」
命が小さく言った。
「……私も、感謝しています。恵さん」
恵は一拍置いて、わずかに口元を緩めた。
「……結構ですわ」
その一言だけで、場がふっと柔らかくなる。
食後の風が気持ちいい。
午後は休む。夕方にもう一度、海へ――そのくらいでいい。