午後の光は強かった。
でも、今日は焦らない。恵が決めた通り、いったん休んでから動く。
集合は夕方前。ロビーに降りると、恵がもう揃っていた。帽子を指で整えて、涼しい顔。
「準備はできまして? 今日は体験ダイビングですわ」
「できてる!」
レンが即答する。昼の勢いのまま。
日和が笑って言う。
「レン、落ち着いてね」
「落ち着いてる! たぶん!」
恵が一言で切る。
「たぶんは禁止ですわ」
「はい!」
命は静かに立っていた。表情は読めない。
でも視線が一度、俺に向く。すぐ外れる。落ち着かないときの動きだ。
俺が小声で言う。
「嫌ならやめていい」
命は一拍置いて、丁寧に答えた。
「……はい。でも、やってみます」
短いけど、逃げない返事だった。
車で少し移動して、別の入り江に着いた。
水が透けていて、浅い場所でも底が見える。ここならサンゴがある。
器材が並び、インストラクターが集めて言った。
「ここは浅いリーフです。サンゴがあります。触らない、踏まない。足は上げて移動」
「合図はこれだけ覚えてください。OKは一番使います」
インストラクターが指で丸を作る。
「水の中は話せません。不安がないか、苦しくないかの確認は全部これです。こちらが聞いたら、必ず返してください」
恵が涼しい顔で頷く。
「ええ。壊したら許しませんわ」
日和が笑う。
「恵、こわい」
「当然ですわ」
レンは水面を覗き込み、目を丸くした。
「え、下にもう見える……すご」
命も同じように水を見る。
すぐ目を逸らすけど、気になってるのが分かる。
「ペアはどうします?」
インストラクターの問いに、恵が即答した。
「ハヤトさんは命。日和はレン。私はスタッフと入りますわ」
レンが一瞬止まって、それから小さく頷く。
「……うん」
日和が少し照れて笑う。
「うん。ついてるよ」
レンはそれで落ち着いた顔になった。
命は俺の隣で、短く言う。
「……お願いします、ハヤトさん」
「ああ」
ウェットスーツを着ると、空気が少し変わる。
命も肩の力がほんの少し抜けた。
浅瀬まで歩く。波が足に当たって、スーツの中がひんやりする。
レンが器材の重さに顔をしかめた。
「これ、重い……」
「水に入れば軽く感じるよ」
日和が言うと、レンは素直に頷く。
「……うん。日和、近くにいて」
「いるよ」
日和の返事で、レンが笑った。照れも隠さない。
命は一歩ずつ、確認するみたいに進んだ。
俺を見る。
「……呼吸、できるでしょうか」
「最初は変。慣れる」
「……はい」
命は丁寧に返して、レギュレーターをくわえた。
最初は水面で練習。
吸って、吐く。吸って、吐く。
レンは一回目で目を見開いて、すぐ日和を見る。
日和が“OK?”のサイン。レンもぎこちなく“OK”。
命も同じだった。
一度だけ呼吸が止まりかける。でもすぐ立て直す。
俺が“OK?”を出す。
命は一拍置いて“OK”を返した。指先が少し震えてる。
恵はもう落ち着いている。インストラクターの横で、淡々と準備を終えていた。
「行きますわ」
恵が先にゆっくり沈む。
俺と命も沈む。
水の中は静かで、音が減る。自分の呼吸だけが聞こえる。
そして、下にサンゴが見えた。
丸いの、枝みたいなの、広がるの。形が全部違う。
その上を、色のきれいな魚が小さな群れで流れていく。青いの、黄色いの、細い線が入ってるの。光に当たるたび、色が変わる。
少し先では、もう少し大きい魚が一匹、ゆっくり回っていた。
近づくと逃げる。でも、視界からは消えない。ここが住処なんだと分かる。
命が目を見開いた。
怖いじゃない。驚きだ。
命は魚を見て、俺を見る。
もう一度、魚の群れを見る。
俺は“OK?”のサインを出す。
命は一拍置いて、“OK”を返した。
さっきより手が落ち着いている。
命が“OK”を返したあとも、景色は止まらなかった。
魚の群れが、サンゴの上をすっと割って通る。
群れの形が一瞬だけ崩れて、すぐ元に戻る。その動きがきれいで、目が追いつかない。
命が指先を少し動かして、遠くを指した。
“あれ”と言いたいのに、声は出せない。
視線の先に、細い魚が一本みたいに泳いでいた。
ゆっくりで、落ち着いている。近づきすぎない距離を保っている。
俺は命に頷いて、距離を変えずに横へ移動した。
足は上げたまま。サンゴを踏まない。
命も同じように動く。
さっきより動きが硬くない。呼吸も乱れていない。
少し先で、レンと日和が見えた。
レンは大げさなくらい丁寧に足を上げていて、日和の横から離れない。
日和がレンに“OK?”を出す。
レンが大きく“OK”。指が元気すぎる。
日和が笑ったみたいに目を細めて、レンの腕を軽く叩く。
水の中でも分かるくらい、レンが嬉しそうに頷いた。
さらに前に、恵。
恵はインストラクターの横で、きれいに進んでいた。迷いがない。
魚の群れが恵の前を横切っても、慌てずに待つ。全部が落ち着いてる。
命が一瞬だけ恵を見る。
それから俺を見る。
比べてるわけじゃない。
“みんなでやってる”のを確認してる目だ。
俺はもう一度“OK”を出した。
命はそれに返して、少しだけ目を柔らかくした。
そのとき、目の前を青い魚が一匹、横切った。
命が一瞬、呼吸を止めかけて、すぐ吸い直す。驚いてる。
命が俺を見る。
俺は何も言わずに、ただ頷いた。
命はそれで落ち着いて、魚の行方を目で追う。
白い泡が少しだけ上がって、光の中で消えた。
少し進むと、レンと日和が見えた。
レンは日和の近くを守るみたいに泳いで、ちゃんと足を上げている。
日和がレンに“OK”を出す。
レンが大きく“OK”。わざとらしいくらい大きい。
恵は少し先で、サンゴの上をきれいに通っていた。無駄がない。
命がふっとこっちを見た。
言葉はない。でも「見せたい」が分かる目だった。
俺は頷いた。
水面に戻ると、レンが先に顔を出して息を吐いた。
「……やばい! サンゴすごい!」
日和が笑う。
「声でかい」
「ごめん! でもすごい!」
「うん、すごいね」
レンが日和を見て、まっすぐ言う。
「日和がいたから、できた」
日和が一瞬止まって、耳が赤くなる。
「……もう。そういうの、ずるい」
「ずるくない。本当」
命はゆっくり顔を出して、息を整えた。
それから俺を見て、小さく言う。
「……できました」
「できたな」
命は一拍置いて、丁寧に続ける。
「……ハヤトさんがいたので」
「俺は隣にいただけ」
「……それが、いいです」
命の声は小さい。
でも、はっきりしていた。
夕方の海は、光が柔らかい。
サンゴの景色が頭に残る。