ダイビングのあと、体の芯が少しだけ冷えていた。
シャワーを浴びて着替えると、ようやく呼吸が戻る。髪を乾かす音が部屋に落ち着きを作った。
集合の時間にロビーへ行くと、恵が先にいた。いつも通り涼しい顔。
でも今日は、服が少しだけ“夜用”だった。派手じゃないのに、ちゃんと違う。
「遅くないですわね。よろしいですわ」
「よろしいって何」
日和が笑う。
「褒めてるんでしょ」
「当然ですわ」
レンは落ち着かない顔で、ネクタイの位置を触った。
「なんか、緊張する。僕、今日ずっと水の中だったのに、今の方が緊張する」
「分かる」
日和が頷いて、レンの袖を軽く引く。
「大丈夫。食べるだけ」
「……うん」
命は静かに立っていた。
表情は読めない。でも、髪がきちんと整っていて、視線が落ち着いている。昼よりも“夜の命”だ。
俺が命を見ると、命は小さく言った。
「……今日は、ありがとうございました」
「何が」
「……隣にいてくださったことです」
言い方が丁寧で、短い。
でも、ちゃんと刺さる。
「どういたしまして」
俺がそう返すと、命は一拍置いて頷いた。
ダイニングは海が見える場所だった。
窓の外はもう暗い。波の音だけが残っている。
席に案内される。個室じゃないのに、周りの気配が遠い。
静かに豪華だ。
レンが小声で言う。
「ここ、映画みたい」
「黙って食べなさい」
恵が即座に言って、でも目は楽しそうだった。
「今日は頑張ったご褒美ですわ」
「ご褒美……!」
レンが目を輝かせる。
最初に出てきたのは、冷たい前菜。
彩りがきれいで、味が軽い。海の後でも入る。
日和が一口食べて、目を丸くする。
「……おいしい」
「当然ですわ」
恵はさらっと言って、グラスを持つ。
「今日は無事に終えました。乾杯ですわ」
グラスが触れる音は小さい。
でも、それだけで一日が締まる。
命はグラスを持って、丁寧に言った。
「……乾杯」
レンが日和を見て、照れたまま言う。
「今日、楽しかった」
「うん。楽しかった」
日和も照れて、すぐ料理に逃げた。
魚料理が来た。昼の釣果とは別物みたいに、上品な味。
肉も来る。ソースが重くない。全部が“疲れてても食べられる豪華”だった。
恵がナイフを置いて言う。
「明日は無理をしません。午前は自由。昼から動きますわ」
「また予定あるんだ」
日和が笑う。
「もちろんですわ。来た以上、遊びますもの」
命が小さく言った。
「……私は、今日だけでも十分です」
恵がすぐ返す。
「だめですわ。命はもっと遊びなさい」
「……はい」
命は断らない。
でも、その返事が少しだけ柔らかい。
俺はその横顔を見て、思った。
海に入れた。潜れた。笑ってはいないけど、逃げていない。
命は少しずつ前に出ている。
レンは日和の隣で、何度も言いかけて、飲み込んでいた。
言葉を溜めている顔だ。たぶん、まだ言えないのだろう。
夜は、静かに豪華で。
今日の疲れを、ちゃんと“良いもの”で上書きする時間だった。
食事が終わるころには、体の疲れがいい感じに出ていた。
満腹で、眠い。でも今すぐ寝るのは惜しい。
部屋に戻ると、レンがソファに沈みながら言った。
「……なんか、締めがほしい」
「締め?」
日和が笑う。
「レン、文化祭みたいなこと言う」
恵が当然みたいに言った。
「締めならありますわ。トランプ」
「あるんだ」
「ありますわ」
恵はテーブルの引き出しから、白い箱を出した。
新品みたいに角が揃っている。
「大富豪でいい?」
日和が言うと、レンが即答する。
「いい! 僕、勝つ!」
「気が早い」
俺が言うと、恵がさらっと言った。
「私が勝ちますわ」
「恵まで言う」
「ゲームですもの」
命は少し離れて座っていた。
でも箱を見る視線が、ほんの少しだけ長い。
日和が命に言う。
「命もやろ。簡単だよ」
命は一拍置いて、丁寧に答えた。
「……はい。やります」
配られたカードを見て、レンが一瞬だけ顔を曇らせた。
「……弱い」
「声で出すな」
日和が笑って止める。
「出しちゃダメだよ」
恵は涼しい顔でカードを揃える。
「ルールは通常で。ジョーカーあり。革命ありですわ」
「恵、容赦ない」
「当然ですわ」
最初の一手で、レンが小さくガッツポーズをした。
「……いける」
「さっき弱いって言ってたのに」
日和が笑う。
恵は淡々と強い札を切っていく。
迷いがない。無駄もない。
「はい。流しますわ」
「強っ……」
レンが呻いて、日和が肩を叩く。
「レン君、頑張れ」
「頑張る……!」
命の番が来る。
命はカードを見て、少しだけ迷う。表情は読めない。
でも指先で、カードの角をきれいに揃えた。落ち着くための癖。
命は静かに出した。
「……同じ数字が、三枚あります」
「出し方が丁寧すぎる」
日和が笑って、恵が言う。
「命、よろしいですわ。出しなさい」
命は頷かずに、三枚を置く。
場が一気に進む。
レンが目を丸くする。
「命、強いじゃん!」
命は無表情のまま、丁寧に言った。
「……偶然です」
「偶然じゃないよ!」
日和が笑う。
終盤、レンがカード一枚になって、勢いよく言った。
「いける!」
「それも声で出すな」
日和が笑って止める。
恵が最後に一言。
「レン、詰めが甘いですわ」
恵が革命を出して、場がひっくり返る。
レンが崩れ落ちる。
「うそ……」
日和が笑いながら言う。
「恵、強すぎ」
「当然ですわ」
命は小さく言った。
「……楽しいです」
その一言が出た瞬間、今日の締めは成功だった。