朝、ロビーに降りると、恵がいた。
昨日の夜の“夜用”じゃない。いつもの恵だ。
「今日は休養日ですわ」
開口一番、それだけ言う。
「珍しいな」
俺が言うと、恵は涼しい顔で返した。
「休むのも予定ですわ。疲れを溜めたら、明日が崩れますもの」
日和が頷く。
「うん、正しい。今日はのんびりしよ」
レンはソファに座ったまま、伸びをする。
「のんびりって……何するの」
恵が即答する。
「各自自由。以上ですわ」
「雑!」
日和が笑う。
「でも、こういう日って大事」
命は静かに立っていた。
表情は読めない。でも、今日は落ち着いて見える。人に見られる時間が少ないからだ。
恵が命を見る。
「命、無理に外へ出なくていいですわ。好きにしなさい」
「……はい」
命の返事は短い。
でも、ちゃんと“助かる”が含まれてる。
午前はバラけた。
レンはまずプールに行った。海じゃない。淡水。落ち着く。
水に入った瞬間、表情が明るくなる。泳ぐのはレンの素だ。
レン
『日和、今どこ? 一緒に泳がない?』
グループメッセージでレンから通知が来る
返事はすぐ来た。
日和
『今は部屋。あとで行くね』
『焦らないでね』
レンは頑張ってアプローチしているみたいだ
恵は休養日でも恵だった。
ラウンジの席に座って、スタッフと短い打ち合わせをしている。
声は小さいのに、内容が全部“決めてる”。
「明日の集合は少し遅らせて。昼は軽く、夜は外で」
スタッフが頷く。
「かしこまりました」
恵はそこで初めて、こちらに気づいた。
「ハヤト様。飲み物、何がよろしいですの?」
「水でいい」
「味気ないですわね。では、果物の水にしておきますわ」
「それは水か?」
「水ですわ」
恵は当然みたいに言って、ちゃんと美味しいものを出す。
“休ませる”も運営だ。
命はラウンジの端の席にいた。
本を読んでいる。ページをめくる音が小さい。
近くにいても、命は目立たない。
でも今日は、それがちょうどいい。
俺が近づくと、命は顔を上げて丁寧に言った。
「……おはようございます、ハヤトさん」
「おはよう」
命は本を閉じない。
閉じないまま、少しだけ言う。
「……今日は、楽です」
「人が少ないから?」
「はい。……それもあります」
命は一拍置いて、続けた。
「昨日は、楽しかったです。恥ずかしかったですが」
「まだ言う」
「……はい」
命は淡々と言って、でも少しだけ耳が赤い。
俺はそれを見ても、何も言わない。
命はそれで落ち着く。
昼前に、プールから戻ったレンが飛び込んできた。
「日和、まだ!? 僕、もう五百メートル泳いだ!」
「すごいね」
日和が遅れてやってきて、レンを見る。
「レン君、元気すぎ」
「元気! 日和来たらもっと元気!」
「……はいはい」
日和は照れて笑って、レンの隣に座った。
恵が涼しい顔で言う。
「二人とも、今日は休養ですわ」
「休養の定義とは」
日和が笑うと、恵は即答する。
「疲れない範囲で動くことですわ」
「なるほど」
レンが頷く。
「じゃあ僕、疲れない範囲で泳ぐ!」
「疲れますわ」
「ええ……」
レンがしょんぼりして、日和が笑った。
午後は、みんな同じ場所に集まった。
ラウンジのテーブル。飲み物。軽いお菓子。
レンはトランプを出したかったみたいだが、恵に止められた。
「今日は頭を使いすぎないで」
「ゲームで頭を使うの!?」
「使いますわ」
日和が笑う。
「恵、ほんとに管理してる」
命は静かにお茶を飲んでいた。
白いカップを両手で持つ。姿勢がきれいで、でも今日は硬くない。
俺が言う。
「休養日、どう」
命は丁寧に答えた。
「……助かります」
短いけど、素直だ。
レンがその言葉を聞いて、少しだけ静かになった。
そして、日和を見て言う。
「じゃあ、今日はさ。焦らない」
「うん」
日和が小さく頷く。
恵は涼しい顔で、でも満足そうに言った。
「よろしいですわ。休める人が勝ちですの」
“勝ち”を言うのは恵だと、妙に納得できた。
午後のラウンジは静かだった。
レンは日和に連れられて外へ出て、恵はスタッフに何か短く指示を出してから戻ってきた。
「……ハヤト様」
恵が俺を呼ぶ。日和みたいに軽くじゃない。恵の呼び方は、いつもどこか“決めてる”。
「何」
「少しだけ。こっちへ」
恵はラウンジの端、柱の影みたいに人目が減る位置へ誘導した。
わざわざ、だ。
「……休養日なのに、仕事みたい」
「休養日だからこそ、ですわ」
恵は涼しい顔で言う。
「皆がちゃんと休めているか、確認する必要がありますの」
「確認って、俺を?」
「ええ。ハヤトさんを」
恵は言い切って、間を置いた。
そして、声を落とす。
「……私、今日の場を作りましたわ」
「作ったな」
「褒めてください」
「褒めてるだろ」
「言葉だけでは足りませんわ」
恵は一歩近づく。距離が急に変わる。
俺が反射で息を止めると、恵は微笑んだ。
「……キス。くださいませ」
「……は?」
冗談みたいな口調なのに、目が冗談じゃない。
恵は逃げ道を塞ぐように、もう半歩だけ詰める。
「嫌なら、嫌と言って」
その言い方が、ずるい。
拒否できる形を作って、でも拒否しにくい。
俺は一拍置いて、短く言った。
「……分かった」
恵の目が、少しだけ満足そうに細くなる。
「よろしいですわ」
恵が顔を寄せる。俺は目を逸らさなかった。
次の瞬間――背後で、小さく扉が開く音がした。
俺は気づかないまま、恵の方だけ見ていた。
唇が重なる
恵はわずかに視線を動かした。
そして、何事もなかったみたいに距離を戻す。
「……あら」
その一言。
俺はそこで初めて振り返る。
廊下の入口に、命が立っていた。
表情は読めない。いつも通り丁寧に整っている。
ただ――目だけが、止まっている。
命は小さく頭を下げた。
「……失礼しました」
それだけ言って、静かに引いた。
足音は小さくて、すぐ消えた。
「命?」
俺が名前を呼ぶ頃には、もう姿がない。
恵は何でもない顔で言う。
「追わなくていいですわ」
「……なんで」
「今追うと、余計にこじれますもの」
恵の声は軽い。
でも、恵の“軽い”は、恵の軽いだ。
俺は立ち尽くしたまま、命が消えた廊下を見た。
胸の奥に、嫌な予感だけが残っていた。