※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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86話 もやもや

 命視点

 

 

 

 ラウンジへ戻るつもりだった。

 本を取りに行って、席に戻る。それだけ。

 

 廊下の角を曲がったところで、声が聞こえた。

 恵の声。いつもより近い距離の、低い声。

 

 足が止まった。

 

 柱の影に、二人がいた。

 恵がハヤトさんに近づいていて、ハヤトさんは逃げていなかった。

 

 次の瞬間、二人の距離が消えた。

 

 頭が真っ白になる。

 音が遠い。自分の呼吸だけがうるさい。

 

 見てはいけない。

 そう思うのに、目が外れない。

 

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。

 痛い、というより、息が詰まる。

 

(……キス、してる)

 

 分からない。

 でも、見たくなかった。

 

(……どうして、胸が苦しいんだろう)

 

 恵が、わずかに視線を動かした。

 気づかれた、と思った。

 

 私は反射で頭を下げた。

 

「……失礼しました」

 

 声が自分のものじゃないみたいに聞こえた。

 そのまま、戻る。足音を立てないように。

 

 振り返らない。

 振り返ったら、全部が壊れそうだった。

 

 背中に気配は来なかった。

 呼び止める声もない。

 

 部屋に戻ってから、時間が少しだけ進んだ。

 時計を見ても意味がない。気持ちが追いつかないから。

 

 頭の中に、さっきの場面が何度も出てくる。

 恵が近づいて、ハヤトさんが拒まなくて、距離が消えた。

 

(嫌だった)

 

 そこまでははっきりしている。

 でも、嫌だった理由が言えない。

 

 恵に非があるわけではない

 ハヤトさんが悪いとも言えない。

 

 それなのに胸が苦しい。

 もやもやが残る。

 

 私はベッドに座って、両手を膝の上に置いた。

 姿勢を整える。落ち着くため。――落ち着かない。

 

(……私は、何に引っかかっているんだろう)

 

 答えが出ないまま、また場面が浮かぶ。

 そして次に、別の想像が勝手に混ざった。

 

 恵じゃなくて、私。

 ハヤトさんの前に立つ私。

 

 その想像が出た瞬間、息が止まりかけた。

 

(……違う)

 

 否定したいのに、否定できない。

 胸の奥が熱い。恥ずかしい。なのに、目を逸らせない。

 

 自分の気持ちを探すみたいに、ゆっくり考えた。

 

 私は、あの場面が「羨ましかった」。

 そう言うと、一番合う。

 

 そして、もっと嫌な本音がある。

 

 恵がしたから嫌だったんじゃない。

 “私じゃなかった”から、嫌だった。

 

 そこまで考えて、やっと形になった。

 

「……私も、してみたい」

 

 心臓が早くなる。

 言葉にしただけで、顔が熱くなる。

 

 でも、止まらなかった。

 

 ハヤトさんと。

 キスを。

 

 理由は分からない。

 はっきりした“確信”もない。

 

 ただ、思ってしまった。

 してみたい。確かめたい。

 

 自分が、どんな顔をするのか。

 どんな気持ちになるのか。

 

 そして、怖い。

 

 断られたらどうなるのか。

 自分が傷つくのか。恵がどう思うのか。全部怖い。

 

 でも、怖いのに、消えない。

 

 私はスマホを手に取って、画面を見た。

 誰にも送れない。送れるわけがない。

 

 その代わり、予定を確認するふりをした。

 明日。明後日。残りの日。

 

(……一度だけでいい)

 

 言い訳みたいな言葉が出る。

 でも、言い訳でもいい。今は。

 

 私は深呼吸して、立ち上がった。

 鏡の前で、いつも通りの顔を作る。

 

 できている。

 表情は整っている。

 

 それでも、心は整っていない。

 

 ドアノブに手をかけて、止まった。

 今すぐ行く勇気はない。

 

 でも、決めた。

 

(……タイミングを、作る)

 

 逃げない。

 ただ、焦らない。

 

 私は部屋を出た。

 廊下の静けさの中で、自分の足音だけが聞こえた。

 

 その音が、少しだけ怖かった。

 

 恵がソファに座っていた。涼しい顔。

 ハヤトさんもいた。普通に水を飲んでいる。

 

 私の視線が一瞬だけ揺れた。

 すぐ戻す。

 

「……戻りました」

 

 声は丁寧に出た。

 自分の声で安心する。まだ壊れていない。

 

 恵がこちらを見る。

 

「命、早かったですわね」

「はい。少し……風に当たりたくなりました」

「良いことですわ」

 

 恵はそれ以上言わない。

 何もなかったみたいに、場を普通に戻す。

 

 それが恵の強さだ。

 同時に、ずるさでもある。

 

 ハヤトさんが私を見る。

 

「大丈夫か」

 

 短い言葉。

 いつも通りの問いかけ。

 

 私は頷く。

 

「……はい。大丈夫です」

 

 本当じゃない。

 でも、今はそれでいい。

 

 ハヤトさんはそれ以上追わない。

 いつも通り。

 

 その“いつも通り”が、今は少しだけ怖い。

 私が勝手に揺れているのに、相手は普通だ。

 

 日和が遅れて戻ってきた。

 レンはいない。たぶんプールか、部屋か。

 

「命、いた。ねえ、少し散歩しない?」

 

 日和はいつもみたいに自然に言う。

 ハヤトさんだけは「ハヤトさん」と呼ぶ。

 

「ハヤトさんも行く?」

「俺はいい。二人で行け」

「了解」

 

 日和が私の腕を軽く引く。

 

「行こ」

「……はい」

 

 外の風は、確かに楽だった。

 海の音が一定で、頭の中が少しだけ静かになる。

 

 日和は歩きながら、何でもない顔で言う。

 

「今日さ、楽しかったね」

「……はい」

「命も、ちゃんと楽しんでた」

「……そう見えましたか」

「見えるよ。命は分かりにくいけど」

 

 日和は笑って言う。

 私は笑えない。でも、否定もしない。

 

 少し間が空く。

 

 日和が、横目で私を見る。

 

「ねえ、命。なんかあった?」

 

 心臓が一回強く鳴った。

 声が出なくなる。

 

「……何も」

 

 言いかけて、止まる。

 嘘を重ねるのは嫌だった。

 

 私は言い直す。

 

「……少しだけ、落ち着かないです」

「そっか」

 

 日和はそれ以上踏み込まない。

 でも、歩く速度を少しだけ合わせてくれる。

 

「無理に言わなくていいよ。命のペースで」

「……ありがとうございます」

 

 それだけで、胸のざらざらが少し減った。

 

 部屋に戻る途中、私は思った。

 

(……私も、してみたい)

 

 言葉にすると恥ずかしい。

 でも消えない。

 

 今すぐじゃない。

 焦らない。

 

 ただ、タイミングを作る。

 それだけ決める。

 

 廊下の角で、私は一度だけ立ち止まって、手を握って開いた。

 落ち着け、という合図みたいに。

 

 そして、何もなかった顔でドアを開けた。

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