夕方、部屋に戻ると、体がやっと“遊んだ疲れ”を思い出した。
シャワーで塩と砂を落とす。冷房の風が気持ちいい。
鏡の前で髪を整えながら、俺は自分に言い聞かせる。
普通でいけ。
余計なことを考えるな。
服を替えるだけで気分が切り替わる。
今日はイベント日だ。夜は食って、休む。それでいい。
余計なことは考えず、ロビーへ向かった。
ロビーに集まると、恵はもう準備ができていた。
派手じゃない。でも、きちんと綺麗。全体を見て、完璧に整っている。
「行きますわ。夜風が出る前に始めますの」
「はーい」
日和が返事をして、レンも頷く。
「体力、残してる!」
「残してない顔ですわ」
「残してる!」
命は静かに並んでいた。
表情は読めない。でも昼より硬い。いや、硬いのは俺かもしれない。
俺が命を見ると、命は丁寧に言った。
「……よろしくお願いします、ハヤトさん」
「よろしく」
それ以上は言えない。
言ったら、声が変になる気がした。
プライベートビーチに着くと、すでにBBQの準備が整っていた。
明るすぎない照明。波の音が入る距離。テーブルには飲み物と皿が並ぶ。
レンが目を輝かせた。
「うわ、もう匂いが勝ち!」
「勝ち負けではありませんわ」
恵が涼しい顔で言う。
「美味しく食べるだけですの」
日和が笑う。
「レン、今日は焼き係する?」
「する! 僕、焦がさない!」
「昼もそれ言ってた」
「今日は焦がさない日!」
恵が即答する。
「焦がしたら没収ですわ」
「厳しい!」
「当然ですわ」
席は自然に決まった。
……自然に見えるように、恵が整えた。
命の位置を風上に変えて、俺の隣が空く。
恵は何でもない顔で、そういうことをする。
俺はその仕組みに気づいても、顔に出さない。
今は、普通のままでいないといけない。
恵が手を叩く。
「では始めますわ。焼く人は、焦らない。食べる人は、待つ。以上」
「仕切りが強い」
日和が笑って、レンはトングを握った。
「よし……!」
肉が鉄板に乗る。音がして、匂いが一段上がる。
レンが真剣な顔になる。
「日和、これ、今?」
「まだ」
「まだか……」
「待てる?」
「待てる!」
日和が笑う。
「えらい」
レンはそれだけで嬉しそうに頷いた。
命は皿を持って、静かに座っていた。
目線は鉄板じゃなく、海の方に向く。にぎやかから少し離れるためだ。
俺は命にだけ聞こえる声で言う。
「疲れてない?」
命は一拍置いて答えた。
「……大丈夫です。少し、眩しいだけです」
命らしくて、俺は頷くだけにした。
ここで余計なことは言わない。
恵が肉を一枚、俺の皿に置いた。
「ハヤト様。食べてくださる」
「ありがと」
「当然ですわ」
次に、恵は命の皿にも同じように置く。
「命も。食べなさい」
「……ありがとうございます」
命は丁寧に頭を下げる。
その動きがいつも通りで、俺は少しだけ救われた。
レンが声を上げる。
「日和、できた! これ、絶対うまい!」
「うん、うまい」
日和が一口食べて、頷く。
「レン君、普通に上手」
「えっ」
レンの耳が赤くなる。
「……もっと言って」
「欲しがるな」
「欲しい!」
日和が笑って、レンの肩を叩いた。
「後でね」
「後で!? 今じゃないの!?」
「今は食べる」
「はい……」
レンは素直に従った。素直すぎる。
恵は飲み物を一口飲んで、俺を見る。
「ハヤト様。今日は”普通”に楽しんで」
昼にも言われた言葉。
俺は短く返す。
「楽しんでる」
「嘘ですわね」
恵がさらっと言う。
「顔が固い」
俺は言い返せない。
でも表情は崩さない。
「……固くない」
「固いですわ」
恵は笑わないまま言って、視線を外した。
命はそのやり取りを、見ていないふりをしていた。
見ていないふりのまま、俺の方を見ない。
それが、余計に胸に残る。
食べ進めるほど、空気は柔らかくなる。
肉、野菜、魚。恵の指示で、順番もちゃんとしている。
「次は野菜ですわ」
「恵、健康」
「常に健康ですわ」
日和が笑う。
「恵、結局“管理”なんだね」
「運営ですわ」
その言葉が出た瞬間、俺の頭に昨日の場面がよぎる。
恵の距離。俺の返事。命の気配。
心臓が一回だけ強く鳴った。
顔に出すな。
俺は箸を動かして、普通のふりを続けた。
命が小さく言う。
「……おいしいです」
その一言が、俺を現実に戻した。
「それはよかった」
命は頷かない。
でも、もう一度だけ小さく言った。
「……はい」
短くて、丁寧な返事だった。
食べ進めるほど、空気が柔らかくなる。
肉、野菜、魚。レンは焼き係に集中して、日和は横で火加減を見ている。恵は全体を見て、必要なときだけ手を出す。
「レン、今のは良いですわ」
恵が淡々と言う。
「え、褒められた」
レンが嬉しそうに日和を見る。
「日和、聞いた?」
「聞いた。よかったね」
「よし、もう一枚焼く!」
「焦るな」
日和が笑って止める。
命は静かに食べていた。
会話に無理に入らない。でも、聞いている。たまに口元が少しだけ緩む。
恵が皿を置いて言う。
「はい。食事はこれで終わり。次は焚火ですわ」
「来た!」
レンが手を叩く。
「マシュマロ!」
「用意してありますわ」
「最高!」
日和が笑う。
「レン、結局それ」
「だって大事!」
砂浜の少し奥に、火が用意されていた。
風を避ける位置。近くにバケツと砂。安全がちゃんとしてる。
恵がブランケットを配る。
「冷えますわ。羽織りなさい」
「ありがと」
日和が受け取って、レンにも投げる。
「レン、はい」
「うわ、日和が投げてくれた」
「はいはい」
レンは照れたまま、すぐ肩にかけた。
命にも恵が渡す。
「命、夜風が来ますわ。羽織って」
「……ありがとうございます」
命は丁寧に受け取って、肩に掛ける。少しだけ安心した顔になる。分かりにくいけど。
俺もブランケットを受け取って、火の近くに座った。
串とマシュマロが配られる。
レンが真剣な顔で火にかざした。
「焦がさない……焦がさない……」
「さっきも聞いた」
日和が笑う。
「でも分かる。焚火って、意外と焦げる」
「焦げたら負け?」
「負けじゃない。食べるだけ」
恵が涼しい顔で言う。
「焦がしたら私が取り上げますわ」
「え!」
「冗談ですわ。半分」
「半分こわい!」
レンが言って、日和が吹き出した。
命は火を見ていた。
火の揺れは一定じゃないのに、見ていると落ち着く。そういう種類の時間だ。
「……きれいですね」
命が小さく言う。
「火?」
俺が聞くと、命は一拍置いて答えた。
「はい。……動いているのに、同じです」
「分かる」
それだけで、会話が成立する。
レンがマシュマロを引き上げて、日和に見せた。
「できた!」
「……きれいに焼けてる」
「でしょ!」
レンは嬉しそうに言って、すぐ一口食べた。
「熱っ……でも、うまい!」
「ゆっくり食べなよ」
「うん!」
日和は自分のマシュマロを少しだけ焼いて、レンに言う。
「レン、そっち焦げてない?」
「焦げてない!」
「うそ、ちょっと焦げてる」
「ちょっとならセーフ!」
「セーフ判定甘い」
二人のやり取りが、焚火の音に混ざってちょうどいい。
恵は少し離れた椅子に座って、波の音を聞いていた。
それでも全体を見ている。目線が届く位置から動かない。
「……いい夜ですわね」
恵がぽつりと言う。
「うん」
日和が頷く。
「こういうの、好き」
「好きと言ってよろしいですわ」
恵は涼しい顔のまま、でも満足そうだった。
命はマシュマロを焼くのが上手かった。
火に近づけすぎない。回す。待つ。焦らない。
「……焦がしたくないだけです」
命が淡々と言うと、日和が笑った。
「命、丁寧すぎ」
レンが頷く。
「丁寧って強い」
「強くありません」
命は即答して、でもマシュマロは完璧だ。
俺はそれを見て言った。
「上手いな」
命は一拍置いて、少しだけ視線を外す。
「……ありがとうございます」
その返しが、いつも通りで、少しだけ柔らかい。
火が少し落ち着いたころ、レンが急に静かになった。
マシュマロを見ながら、日和に言う。
「……日和」
「なに?」
「今日さ、昼も夜も、一緒にいてくれてありがとう」
日和が一瞬止まる。
でも目を逸らさずに言った。
「うん。楽しいし」
「……うん」
レンはそれ以上言わない。
言えないというより、今日はここで止めておく顔だった。
恵は何も言わない。
でも、レンのその止め方を見て、少しだけ頷いた。
焚火の前は、無理に話さなくてもいい。
火の音と波の音が、沈黙を悪いものにしない。
命が火を見て、ほんの少しだけ息を吐いた。
それが“落ち着いた”のサインに見えた。
恵が立ち上がる。
「そろそろ戻りますわ。冷えますもの。今日はこれで終わり」
「はーい」
日和が返して、レンも名残惜しそうに火を見る。
「明日もやりたい」
「明日は別ですわ」
「別かぁ……」
恵は涼しい顔で言った。
「別があるから、楽しいのですわ」
火を消して、砂浜を戻る。
夜は静かで、疲れが気持ちよかった。
今日は、いい意味で“何も起きない”まま終わった。