荷物はもうまとめてあった。
ロビーに集まると、みんな少しだけ静かだった。濡れた髪も、笑い声も、もう昨日のことみたいに遠い。
外に出る。
車に乗って、空港へ向かう。
レンは窓の外を見ながら、何度も笑いそうになって、やめていた。
日和の方を見て、また前を見る。手は落ち着かないのに、顔はずっと明るい。
日和はそれを見て、何でもないふりで言う。
「レン君、帰ったら寝なよ」
「寝る。……でも、また来たい」
「また来よう」
「うん」
恵が前の席からさらっと言った。
「来たければ、来ればよろしいですわ。計画は私が立てます」
「恵、強い」
「当然ですわ」
その会話に混ざらず、命は静かに座っていた。
表情は読めない。でも、横顔の線が少し柔らかい。
俺は命の隣に座って、外を見るふりをした。
あの夜から、まだ変な感じが残っている。
変な感じ、というより――落ち着かないのに、落ち着いている。
命が、俺の方を見た。
視線が少しだけ長い。
「……ハヤトさん」
「ん?」
命は一拍置いてから言った。
丁寧に、逃げずに。
「……今度、うちに来てください」
俺の心臓が一回だけ強く鳴った。
でも顔には出さない。
「家に?」
「はい」
命は頷いた。
表情は崩れないのに、耳が少し赤い。本人も分かってるはずだ。
「渡したいものがあります」
その言い方が、真面目で、重い。
でも嫌じゃない重さだった。
「……分かった」
俺がそう返すと、命の肩が少しだけ落ちた。
安心した、って動き。
「……ありがとうございます」
「何を渡すんだ」
俺が聞くと、命は一瞬だけ言葉に詰まって、丁寧に答えた。
「……そのときに、言います」
逃げじゃない。
今日の命は、ちゃんと“先”を作る言い方をする。
「分かった」
俺はそれ以上追わなかった。
追わない方が、命が言える気がしたから。
空港に着く。
プライベートジェットが当たり前みたいに待っている。
レンが一度だけ天を仰いだ。
「……帰りもこれなんだ」
「帰りもこれですわ」
恵が淡々と言う。
「往復ですもの」
「往復が当たり前ってなに……」
日和が笑う。
「レン君、慣れて」
「慣れない!」
恵がスタッフに軽く頷いて、搭乗が始まる。
みんな、もう“帰る動き”だ。
機内に入ると、冷房の空気で一気に現実に戻った。
席に座ると、緊張が抜ける。
レンは日和の隣に座った。
自然にそうなる。もう隠さない。
日和も何も言わない。
当たり前みたいに隣にいる。
恵は前の方に座って、端末を開いている。
本家からの連絡の件かもしれない。顔は変わらない。
命は窓側。俺はその隣。
シートベルトの音が小さく重なる。
エンジンが低く唸って、機体が動き出す。
離陸の瞬間、命の指が肘掛けを軽く握った。
怖いのではなく、力の入れ方が丁寧なだけ。
「……揺れますね」
命が小さく言う。
「揺れるな」
俺が返すと、命は少しだけ息を吐いた。
窓の外で島が小さくなる。
海が遠ざかる。
旅行が終わる。
でも、終わりじゃない。
命がもう一度だけ、俺を見る。
「……約束です」
「約束だ」
短く返す。
命は小さく頷いて、視線を窓に戻した。
表情は読めないまま。丁寧なまま。
でも、俺には分かった。
命は今、次に進もうとしている。
機体が雲を抜けると、揺れが少しだけ落ち着いた。
シートベルトのサインが消えて、機内の空気が柔らかくなる。
レンが前のめりになって、日和に小声で言う。
「……ねえ、日和」
「なに?」
「帰ったらさ、近いうち、ちょっとだけ時間ちょうだい」
日和が一瞬だけ目を止めて、すぐ笑った。
「うん。いいよ」
「……うん」
レンはそれ以上言わない。
言わなくても、もう通じている感じだった。
恵は端末を見たまま、さらっと言う。
「レン。浮かれるのは結構ですわ。でも落ち着きなさい」
「落ち着いてる!」
「落ち着いていませんわ」
日和が笑って、レンが照れた。
命はそのやり取りを聞いている。
表情は変わらない。けど、視線が少しだけ柔らかい。
俺は窓の外を見ながら、命の方へ少しだけ体を向けた。
「いつ行けばいい」
命が一拍置いて答える。
「……日程は、合わせます。家の予定もありますから」
「了解」
命は小さく頷いた。
それから、少しだけ声を落とす。
「……急ではありません。ちゃんと準備したいです」
「準備?」
命は一瞬だけ迷って、でも言った。
「……渡すものの、準備です」
それだけで、十分だった。
命が“ただのノリ”で言っていないのが分かる。
「分かった。待つ」
「……はい」
短い返事。
でも、その「はい」に逃げがない。
飲み物が配られた。
レンはジュースを受け取って、日和の方を見てニヤけそうになって、咳払いした。
「……うん」
「何その声」
「普通」
「普通じゃない」
日和が笑って、レンは耳まで赤くなる。
恵がこちらをちらっと見る。
「ハヤトさん。命、変な顔をさせていませんでしょうね」
「させてない」
命が小さく言う。
「……していません」
言った直後、命は自分で気づいたみたいに視線を落とした。
少しだけ恥ずかしい顔の動き。
恵が満足そうに言う。
「よろしいですわ」
俺は思わず、息を吐いた。
恵に判断されるのは落ち着かない。
しばらく、機内は静かだった。
エンジン音と、ページをめくる音と、氷が触れる音だけ。
命が窓を見たまま言った。
「……ハヤトさん」
「ん?」
「……来てくださるんですよね」
確認じゃない。
不安が混ざった言い方だった。
「行く」
俺が即答すると、命は少しだけ息を吐いた。
「……ありがとうございます」
命は丁寧なまま。
でも、その丁寧さの下に、ちゃんと“喜び”がある。
俺はそれを見て、変に嬉しくなった。
やがて機体が降下を始める。
外の景色が近づいて、街の形が見えてくる。
レンが窓を覗いて言う。
「戻ってきた……」
「戻ってきますわ」
恵が淡々と言う。
「そして日常ですの」
日和が笑った。
「日常、ちょっと変わったね」
レンが小さく頷く。
「……うん」
命は何も言わない。
でも、俺の方を一瞬だけ見た。
その視線が、もう“戻ったら終わり”じゃないと教えてくる。
着陸の衝撃が来る。
タイヤの音。少し遅れて機体が減速する。
俺は座ったまま、命に小さく言った。
「帰ったら連絡する」
命は頷く。
「……はい。待っています」
その言葉が、約束の形になった。
旅は終わる。
でも、続きはちゃんと残っている。
バカンス回は書いてて楽しかったー