空港を出ると、熱気がまとわりついた。
島の風とは違う。匂いも違う。音も多い。
「……戻ってきた……」
レンが小さく言う。
日和が笑って肩を叩いた。
「うん。現実」
「現実、強い」
恵は涼しい顔で歩いている。
荷物も、段取りも、全部いつも通り。旅行が終わっても恵は崩れない。
「車を回してありますわ」
「え、ここでも?」
「当然ですわ」
レンが天を仰いで、日和が笑う。
「レン君、慣れてね」
「慣れない!」
命は静かに俺の横を歩く。
表情は読めない。でも、歩幅が同じだ。合わせているんじゃなくて、自然に。
車に乗り込むと、冷房の空気が一気に体を落ち着かせた。
窓の外は街。信号。人。島とは真逆なのに、ちゃんと日常だ。
まずはそれぞれの家へ送る流れになった。
最初に日和。
家の前で降りるとき、日和がさらっと言う。
「レン君、連絡して」
「……する」
レンの声が小さい。
日和は笑って、何でもないふりをして手を振った。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
日和が家に入るまで、レンは窓の外を見ていた。
嬉しいのに落ち着かない顔。分かりやすい。
次はレン。
車が止まると、レンがシートベルトを外しながら、俺を見る。
「ハヤト、ありがと」
「何が」
「……いろいろ」
レンは言い切れなくて笑った。
「あと、恵も」
「当然ですわ」
恵が即答して、レンが苦笑する。
「強い……」
レンは最後に命も見た。
「命、またね」
「……はい。また」
命は丁寧に返した。
レンはそれだけで満足そうに頷いて、車を降りた。
残るのは、恵と命と俺。
恵の家は方向が違うのに、恵は当たり前みたいに言う。
「私は最後でよろしいですわ。先に命を送りなさい」
「……いいのか」
「問題ありません」
さらっと言う。
でも“本家”の言葉はやっぱり重い。
命は小さく言った。
「……恵さん、ありがとうございました」
「当然ですわ」
恵は言い切って、少しだけ声を落とす。
「命さん。次はあなたが決めなさい」
命は頷いた。
「……はい」
俺はそのやり取りを横で聞いて、少しだけ息を吐いた。
恵が背中を押すと、逃げ道がなくなる。いい意味で。
命の家の近くまで来ると、街の雰囲気が変わった。
静かで、道が広くて、手入れが行き届いている。
門が見えた時点で分かる。
“家”というより“敷地”だ。
車が止まる。
命がシートベルトを外して、俺を見た。
「……ハヤトさん」
「ん?」
「……帰ってきましたね」
「ああ」
命は一拍置いて、丁寧に言う。
「今日は、ありがとうございました」
「俺も」
言いかけて、やめた。
“楽しかった”は軽く聞こえる気がしたから。
命はそれを待たずに、続ける。
「……連絡します。日程」
「了解」
命が車を降りる。
門の方へ歩いて、途中で一度だけ振り返った。
表情は読めない。
でも、手が小さく動く。手を振ってる。
俺は小さく手を上げた。
最後に恵の家へ向かう。
恵は端末を閉じて、窓の外を見たまま言った。
「……旅行は成功ですわね」
「成功だな」
「レンと日和は特に」
「特にだ」
恵は一拍置いて、俺を見た。
目だけで言ってくる。
「命さんも。……それから、私も」
「……ああ」
恵は満足そうに頷いた。
「では次は、あなたが責任を取りなさい」
「責任って」
「言葉通りですわ」
恵はそう言って、最後にさらっと付け足した。
「本家から変な口出しがあったら、私が止めます」
「……助かる」
「当然ですわ」
車が恵の家の前に止まる。
恵は降りる前に一度だけ言った。
「ハヤトさん。焦らないで、でも止まらないで」
「分かってる」
「分かっていませんわね。……まあ、いいですわ」
恵はドアを閉めて、振り返らずに歩いていった。
背中が強い。
家に戻って玄関を開けた瞬間、足音が来た。
黒柴のこひなが、床を滑るみたいに走ってくる。
「ただいま」
こひなは俺の足に体を寄せて、尻尾をぶんぶん振った。
分かりやすすぎる。
遅れて、三毛猫のココが現れる。
こひなほど騒がない。玄関の手前で一度止まって、俺を見上げた。
「ココもただいま」
ココは「別に待ってないけど」みたいな顔で、ゆっくり近づいてくる。
そして、俺の足元で一回だけすりっと擦って、何事もなかったみたいに歩いていった。
その一回で、胸の奥が落ち着いた。
帰ってきた、って実感がやっと出る。
荷物を置いて、こひなの頭を軽く撫でる。
ココはソファの背に乗って、こちらを見ている。
スマホを確認する。
通知は少ない。
でも、待っているものがある。
命からの「日程」の連絡。
そして、渡したいもの。
俺はソファに座って息を吐いた。
帰ってきた。
玄関でこひなにまとわりつかれて、ココに一回だけ足を擦られて。
それだけで、体の力が抜けた。
荷物をリビングに運んで、ソファに座る。
こひなは足元に丸くなって、ココは背もたれの上。監視みたいな目。
スマホを見る。通知は少ない。
でも、待ってるのは一つだ。
画面が光る。
『日程、今夜か明日で送ります。……来てくださる約束、忘れないでください』
短い文章。丁寧。
最後だけ、少しだけ必死。
俺は短く返す。
『忘れない。落ち着いたら教えて』
送信して、スマホを伏せた。
静かだ。
島の波の音も、花火の残りも、ここにはない。
代わりに、冷蔵庫の低い音と、こひなの寝息と、ココの尻尾の先だけが動く気配。
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。
「……ただいまー」
母さんの声。沙織。
ドアが開くと同時に、こひなが飛び起きて走る。
「わ、こひな! ちょ、待って待って!」
母さんが笑いながら靴を脱ぐ。
こひなは尻尾を振りながら母さんの足元をくるくる回った。
ココは――動かない。
動かないのに、目だけで母さんを見ている。
「ハヤト、帰ってたんだ」
母さんが顔を出して言った。
俺はソファから手を上げる。
「おかえり。今さっき」
「いいなあ、島。画面で見るやつじゃなくて“本物の島”でしょ」
「本物だった」
母さんがリビングに入って、荷物の量を見て眉を上げる。
「すご。修学旅行みたい」
「だいたいそんな感じ」
「……顔、ちょっと焼けてる」
「たぶん」
母さんはふっと笑って、ソファの背にいるココを見上げた。
「ココ、ただいまは?」
ココは一回だけ瞬きして、視線を外した。
母さんが肩をすくめる。
「はいはい、分かってる。ツンね」
それを聞いたこひなが、なぜか得意げに尻尾を振った。
母さんが俺の隣に腰を下ろす。
仕事帰りの匂いがした。日常の匂い。
「……ねえ」
「ん」
「帰ってきたって感じする?」
聞かれて、俺は一拍置いた。
玄関の音。こひなの足音。母さんの声。ココの無言。
全部が、ここにしかない。
「する」
「だよね」
母さんは短く笑って、俺の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、まずはごはんにしよ。冷蔵庫、空じゃないはず」
「手伝う」
「助かる」
立ち上がると、こひながまた足元に来る。
ココは背もたれから床に降りて、何事もない顔で先にキッチンへ歩いていった。
その背中を見て、俺は思った。
ああ。帰ってきたんだな。