朝、目が覚めた瞬間に思った。
体は自分の部屋なのに、頭の中だけまだ海の音が残ってる。
こひながドアの前で小さく鳴く。
ココはもう起きてるらしく、廊下のどこかで爪の音がした。
リビングに行くと、母さん──沙織がコーヒーを淹れていた。
「おはよ」
「おはよう。……早いね」
「帰ってきた翌日は目が覚める。あるある」
母さんは笑って、俺の顔を見た。
「で、どうだった? 島」
「やばかった」
「語彙」
「語彙なくなるタイプのやばさ」
母さんが満足そうに頷く。
「うん。帰ってきた顔してる」
「何それ」
「分かるの。家の空気に戻ってる感じ」
その言葉で、昨日の「帰ってきたんだな」を思い出す。
俺はコーヒーを一口飲んで、スマホを手に取った。
通知は──来ていた。
命から。
画面に出た文面を見ただけで、背筋が少し伸びる。
変な緊張じゃない。ちゃんとしたやつ。
命
『おはようございます、ハヤトさん。日程をお送りします』
『四日後の午後、時間をいただけますか』
『家に来てください。渡したいものがあります』
短い。丁寧。
でも最後の一文だけ、まっすぐで強い。
俺はすぐ返した。
隼人
『おはよう。四日後の午後、大丈夫』
『時間は何時がいい?』
『行く。約束』
送って、スマホを伏せる。
母さんがちらっとこっちを見た。
「誰?」
「命」
「あー……」
母さんは察した顔をして、コーヒーをもう一口飲む。
「帰ってきたのに、続きがある顔」
「……命を口説いたからな」
「あいかわらずやるわね」
母さんはそれ以上突っ込まない。
そこが助かる。
こひなが俺の足元に鼻を押しつけてきて、尻尾を振る。
ココはテーブルの上に乗って、俺のスマホを一回だけ見て、興味ないふりをした。
四日後。
命の家。
渡したいもの。
俺はもう一度、画面を開いて命のメッセージを見直した。
コーヒーを飲んでると、母さん──沙織がこひなの頭を撫でながら言った。
「帰ってきたのに、顔が落ち着かない」
「……命を口説いたからな」
「ふーん。やるじゃん」
軽い。軽いけど、変に茶化さない。母さんはそこが助かる。
俺はスマホをもう一度見る。
命から来た日程は、四日後の午後。
約束はできた。
あとは、そこまでの“日常”をどう使うか。
昼前、スマホが震えた。
画面に出た名前で、背筋が少しだけ伸びる。
綾乃さん。
通話じゃない。メッセージだ。
綾乃
『ハヤトさん。少しだけ時間、いただけますか』
俺はすぐ返す。
隼人
『大丈夫です。どうしました?』
返した直後に、既読がついて、次の文が来た。
綾乃
『妊娠しました』
短い。
でも一行で、空気が変わる。
俺は息を吸って、指を止めない。
隼人
『おめでとうございます。体調は大丈夫ですか』
数秒置いて、返事。
綾乃
『ありがとうございます。体調は今のところ問題ありません』
『病院にも行きました。まだ初期なので、無理はしないようにと言われました』
『ハヤト君に、先にお伝えしたくて』
現実的で、綾乃さんらしい。
曖昧にせず、先に整える。
俺は短く打つ。
隼人
『伝えてくれてありがとうございます』
隼人
『おめでとうございます。体調を最優先で』
『急ぎません。落ち着いたタイミングで、改めて話を聞かせてください』
綾乃
『ありがとうございます』
『今はまだ初期なので、外ではあまり大きくしないでおきます』
『ただ、近いうちに関係者には整理して伝えます』
隼人
『分かりました。必要なら、いつでも言ってください』
送って、スマホを伏せた。
こひなが足元で尻尾を振ってる。
ココはソファの背で目だけ動かして、俺を見ている。
母さんが台所から言った。
「あら嬉しそうね何かあった?」
「……連絡が来た」
「友達?」
「違う。パートナー綾乃さんから。妊娠」
母さんの手が一瞬止まって、それから普通に動いた。
「そう。おめでとう」
母さんはコーヒーを一口飲んで、さらっと言った。
「玲奈さんの件もあるしさ。これで、パートナー三人の妊娠だよね」
「……ああ」
「この世界だと“義務は果たした”って言われるやつ」
言い方は軽いのに、目だけは真面目だった。
俺は少しだけ息を吐く。
「……言われるな」
母さんはそれ以上言わない。
それが、やっぱり助かる。
午後、レンからも通知が来た。
蓮
『ハヤト! 日和と結婚の約束した!』
わかりやすすぎる。
俺は短く返す。
隼人
『よかったな』
すぐ返ってくる。
蓮
『うん!!! 夏休み中にまた会ってくる!!!』
“放課後”じゃなくて、ちゃんと夏休みの話になってる。
俺はそれでいいと思った。
その流れで、日和からも来る。
日和
『レン、落ち着かないけど元気。かわいい』
俺は笑いそうになって、やめた。
隼人
『よかった。無理させるなよ』
すぐに返事。
日和
『わかってる。ハヤトさんもね』
夕方、恵から来た。
恵
『帰宅後の体調、問題ありませんか』
恵らしい文面。
隼人
『問題ない。そっちは?』
恵
『私は常に問題ありませんわ』
『それより、命の件。ちゃんと次へ進めなさい』
隼人
『ああ』
恵
『余計な口出しはしません。ただし、止まるのは駄目ですわ』
止まらない。
止まる気もない。
隼人
『分かってる』
送ると、一行で返ってきた。
恵
『よろしいですわ』
画面を見て、俺は小さく息を吐いた。
相変わらず強い。強いのに、ちゃんと引き際も分かってる。
……恵、いい女だな。
俺はそのまま返す。
隼人
『恵、いい女だな』
既読がつくのが早い。
恵
『当然ですわ』
夏休みはまだある。
でも、ただダラダラするには、もう戻れない。
スマホがもう一度震える。命からだ。
命
『時間は14時で大丈夫です。場所は、家で』
『……緊張しますが、来てください』
俺は短く返す。
隼人
『14時了解。行く』
『俺も緊張してる』
送った直後、既読。
少し遅れて、命らしい一文が来た。
命
『……それは、少し安心します』
俺はスマホを置いた。
夏休みは続く。
でも、次の四日間はただの空白じゃない。
ちゃんと進めるための、日常だ。