命視点
朝はいつも通りに来る。
でも、私の中だけが落ち着かない。
顔は整えられる。声も丁寧に出せる。
それでも胸の奥が、ずっと熱い。
(好きな人ができた)
言う。
朝食のときに言う。逃げない。
食堂に入ると、もう席に人がいた。
母――綾乃。祖母――澄乃。姉――由紀子。妹――千佳。
全員いる。
今日に限って、揃いすぎている。
「おはようございます」
母がこちらを見る。
「おはよう、命」
由紀子姉さんが箸を持ったまま言う。
「おはよ。島、どうだった?」
千佳が身を乗り出した。
「ねえ、九条さんの島って……どんな感じだったの? 写真とかある?」
由紀子姉さんが先に釘を刺す。
「千佳。勝手に広げるなよ。命、外で変なことはなかった?」
母が静かに続けた。
「九条家の方々やスタッフに失礼はしなかった? 体調は崩していない?」
私は頷いた。
「……大丈夫です。皆さん丁寧でした。私も問題ありません」
祖母が湯呑みを置いて、楽しそうに言う。
「九条家でしょう。粗相があれば、向こうが先に整えるわよ」
由紀子姉さんが苦笑する。
「それもそれで怖い」
千佳が小声で言った。
「……九条さんってやっぱりすごいんだね」
母が静かに言う。
「九条さんには改めてお礼をしないとね」
「はい」
一拍、間ができる。
今だ。
私は箸を置いた。
音は小さいのに、やけに目立った。
「……お話があります」
千佳がぱっと顔を上げる。
「なに? なに?」
由紀子姉さんは少しだけ表情を変えた。
母も、祖母も、ちゃんとこちらを見る。
私は息を整えて言った。
「……好きな人ができました」
千佳が固まって、次に声が跳ねた。
「えっ!? マジ!?」
「千佳、声」
私は反射で言ってしまって、すぐに自分で恥ずかしくなる。
母は落ち着いていた。
「そう」
由紀子姉さんが短く聞く。
「相手は?」
私は一拍置いた。
「……次に、連れてきます」
千佳が目を丸くする。
「え、連れてくるの!?」
母が落ち着いて言う。
「いつ呼ぶつもりなの」
私は一拍置いた。
まだ、相手には具体的な日を言っていない。
「……まだ決めていません。先に、家の都合を押さえたいです」
由紀子姉さんが眉を上げる。
「なるほど。で、いつがいいの」
「午後がいいです。……皆さんは、いつ時間が取れますか」
母がすぐ答えた。
「私は午後なら合わせられる。日程はあなたが決めなさい」
祖母が湯呑みを置いて、楽しそうに言う。
「私はいつでもいいわよ。あなたが“連れてくる”と言った時点で、こちらは準備するだけ」
千佳が勢いよく頷く。
「私も! 空ける!」
由紀子姉さんが千佳の額を軽く押した。
「空けるじゃなくて、まず予定言え」
千佳が小さくなる。
「……えっと、四日後なら」
私は頷いた。
「……ありがとうございます。四日後で伝えます」
祖母が湯呑みを置いて、楽しそうに笑った。
「いいじゃない。じゃあ、こちらは“迎える準備”ね」
由紀子姉さんが少しだけ顔をしかめる。
「いきなり呼ぶんだ。命、覚悟はできてる?」
「……はい」
言い切ったら、胸が少しだけ軽くなった。
名前より先に、私は“行動”で答えを出した。
「で、何するの?」
私は少しだけ目を逸らしそうになって、踏みとどまった。
「……渡したいものがあります」
母の視線が鋭くなる。
でも怖い鋭さじゃない。確認の鋭さ。
「渡したいもの?」
「……はい」
祖母が楽しそうに言う。
「婚姻具でしょう」
千佳が真っ赤になる。
「えっ、えっ、えっ!?」
由紀子姉さんが千佳の額を軽く押した。
「落ち着け」
母はため息をひとつだけついて、でも声は穏やかだった。
「命。無理はしないで。でも、決めたなら整えて進めなさい」
「……はい」
祖母が湯呑みを置いて言う。
「家のことは私が見ておく。あなたはあなたの顔で行きなさい」
私は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
千佳が小声で言う。
「命、かっこいい……」
私は返せなかった。
かっこよくはない。ただ、恥ずかしいだけだ。
でも、言った。
好きな人ができたと、言ってしまった。
箸を取って、味噌汁を一口飲む。
温かい。
母が箸を置いて、湯呑みを両手で持ち直した。
いつもより少しだけ、話す前の間が長い。
「……皆に、先に伝えておきたいことがあります」
由紀子姉さんが箸を止める。
「なに?」
母は一度だけ息を吸って、丁寧に言った。
「妊娠しました」
一瞬、空気が止まった。
「……は?」
由紀子姉さんが素で声を出した。
千佳は口を押さえたまま固まっている。
祖母に驚きはなかった。
「いつ分かったの」
母は順番を崩さない。
「昨日、病院で確認しました。まだ初期です」
「体調は今のところ安定していますが、無理はしないようにと言われています」
千佳がやっと息を吐いて、震える声で言った。
「……え、ちょ、待って。え、ほんとに?」
まだ驚いている顔のまま、でも目だけが少し明るくなる。
「……え、じゃあ」
千佳は母を見て、言った。
「私、妹か弟ができるってこと……?」
母が一拍置いて頷く。
「そういうことになるわね」
千佳の顔がぱっと変わった。
嬉しさが先に出る。
「やった……!」
声が大きくなりかけて、千佳は慌てて口を押さえる。
「……えっと、おめでとう。母様」
「体調、大事にしてね。私、できることする」
その言葉で、張っていた空気が少しだけ緩んだ。
由紀子姉さんが母を見たまま、言葉を選ばずに言う。
「……まだ懲りないの?」
「五人も逃げられたのに?」
言ってはいけない空気じゃない。家族だから出る言葉だ。
母は顔色を変えない。
でも、返しは丁寧だった。
「懲りる懲りないの話ではありません」
「私の中で整理して、決めました」
由紀子姉さんが眉を寄せる。
「……まだ男遊びしてる、って言われるよ」
千佳が小さく頷きかけて、祖母に睨まれて止まる。
母はそこで少しだけ声を落とした。
「そう言う人はいます」
「でも、それで私が止まる理由にはなりません」
祖母が湯呑みを置いた。音が小さいのに、場が締まる。
「こちらは体と家の段取りを優先する」
「はい。今は大丈夫です」
祖母が頷く。
「ならいい。外には最小限。家の中で整える」
「そのつもりです」
由紀子姉さんはまだ納得していない顔だったが、深く息を吐いた。
「……分かった。言い方きつかったのは悪い」
「でも、今度こそ逃げられるのはもう見たくない」
母は短く頷いた。
「分かっています」
千佳がやっと、小さな声で言う。
「……おめでとう」
母は千佳を見て、丁寧に言った。
「ありがとう」
私は息を整えて言う。
「……おめでとうございます。お母様」
母がこちらを見て、ほんの少しだけ笑った。
「ありがとう、命」