命視点
今日の私は、ちゃんと進める。
そう決めて、味噌汁を飲み干した。
母――綾乃が、箸を置いて言う。
「四日後の午後だったわね」
「……はい」
由紀子姉さんがさらっと釘を刺す。
「相手が来られるかは、命が確認して。あと、変に緊張させないで」
「……はい」
千佳が笑う。
「命が緊張してるのが一番、相手も緊張するやつ」
「千佳」
「……はい」
祖母が湯呑みを持ったまま言った。
「命。呼ぶなら呼ぶで、あなたの顔で迎えなさい。背伸びは不要」
「……はい」
言葉は短くしか出せない。
でも、胸の奥は少しだけ軽くなっていた。
部屋に戻ると、静かだった。
扉を閉めた瞬間、やっと自分の呼吸が聞こえる。
携帯でハヤトさんに連絡を送る。
机の引き出しを開ける。
白い袋。家紋が描かれている。見慣れたはずのものが、今日は別の重さを持っている。
袋の口に指をかけたところで、手が一瞬止まった。
恥ずかしい。怖い。両方ある。
(でも、渡すって決めた)
私は袋を開けた。
中には薄い絹の包み。
その中に、小さな白木の箱。
蓋を開けると、黒い布の上に半月が二つ並んでいる。
対になったペンダント。
片方を持ち上げて、もう片方に重ねる。
ぴたり、と合う。
円になる。
裏側の文様も、重ねると一つになる。
私はそのまま、しばらく指先で触れていた。
冷たいのに、胸の奥が熱い。
軽く渡せない物だ。
私はそっと二つに戻して、箱に戻した。
絹の包みも、袋の口も、丁寧に整える。
引き出しの奥に箱を戻した。
呼吸を整えて、机に手をつく。
ハヤトさんは、好きだと言ってくれた。
私は「はい」と答えた。
それだけで十分なはずなのに――胸の奥がまだ落ち着かない。
でも。
この箱を渡すときだけは、逃げたくない。
渡して、意味を言って、それから――言う。
私の口で、はっきり。
口に出すのは、たぶん一回で限界だ。
だから準備する。丁寧に。崩れないように。
四日後の十四時。
私はこの家で、ハヤトさんに“次”を言う。
四日後までに、やることは分かっている。
包みを新しくする。
渡すときの言葉を決める。
千佳が騒いだときの対策を考える。
考えることが増えるのに、不思議と落ち着いた。
ノックがして、由紀子姉さんの声がした。
「命、入るよ」
「……はい」
由紀子姉さんは部屋に入って、机の上を一瞬見た。
見たのに、何も言わない。そこが姉さんだ。
「決まったんだね。四日後」
「……はい」
「よし」
それだけ言って、由紀子姉さんは少しだけ声を落とす。
「命。家の空気はこっちで整える。命は相手の前で、変に固くならない」
「……努力します」
「努力じゃなくて、呼吸。深呼吸しろ」
「……はい」
由紀子姉さんは小さく笑った。
「できる」
断言されると、少しだけ救われる。
姉さんはドアのところで止まる。
「千佳が浮かれるのは止められない。騒いだら私が止める」
「……助かります」
「当然」
姉さんは出ていった。
一人になって、私は箱を見た。
四日後の十四時。ハヤトさんがこの家に来る。
私は、いつも通りの顔で迎える。
丁寧に。表情は崩さない。
でも、渡す瞬間だけは――崩れてもいいかもしれない。
崩れたら、きっと本当だから。
私は蓋を閉じて、箱を引き出しの奥に戻した。
逃げない。
四日後まで、ちゃんと準備する。
そう決めたのに、胸の奥は静かにならなかった。
静かにならないままでも、私は動ける。顔も声も整えられる。だから進む。
引き出しを閉めて、机の上を一度片付ける。
余計なものがあると、気持ちが散る。
それから、鏡の前に立った。
表情はいつも通り。読めない顔。丁寧な顔。
でも目だけが落ち着かない。
今は準備。
準備は、言葉だけじゃない。
私はスマホのカレンダーを開く。
四日後、十四時。予定はすでに入っている。
その下に、小さくメモを打った。
・茶菓(甘すぎない)
・冷たい飲み物/温かい飲み物
・席(窓際ではない、落ち着く場所)
・千佳は由紀子姉さんが止める
・祖母様の機嫌
最後だけ、少しだけ笑いそうになる。
お婆様は機嫌というより、気分だ。
ノックがした。
「命姉ー、入っていい?」
千佳の声。
私は一拍置いてから答える。
「……はい」
千佳は勢いよく入ってきて、すぐに私の顔を覗き込んだ。
「命姉、顔、固い」
「固くありません」
「固いよ。だって、耳赤い」
私は反射で耳に触れそうになって、止めた。
触ったら負けだ。
「……何でもありません」
「ねえねえ、四日後だよね!? 来るんだよね!? どんな人!? 優しい!? かっこいい!? 九条さんみたいにすごい!?」
「千佳、声」
「……はい」
千佳は口を押さえて、でも目はきらきらしている。
「でもさ、嬉しい」
その一言が、まっすぐで、私は少しだけ息が楽になった。
「……何が、ですか」
「命姉が、“好き”って言えたこと」
千佳は言い切ってから、照れたみたいに目を逸らした。
「私、妹か弟ができるのも嬉しいけど」
「それとは別で……命姉が変わったの、嬉しい」
胸の奥が、少しだけ痛む。
痛いのに、嫌じゃない。
「……変わっていません」
「変わってるよ。だって、前の命姉なら連れてくるとか言わない」
千佳はそこまで言って、急に真顔になった。
「ねえ、命姉。こわい?」
私は一拍置く。
答えは決まっている。
「……こわいです」
千佳が頷いた。
「うん。そりゃそうだよね」
それから、ちょっとだけ小声になる。
「でも、命姉は逃げないんでしょ」
私は頷いた。
「……はい」
千佳がにっと笑った。
「じゃあ、私も邪魔しない。……しないけど、見たい」
「千佳」
「……はい」
その返事が可笑しくて、私はほんの少しだけ口元を緩めた。
分かりにくいけど、千佳には分かるらしい。
「今、笑った」
「笑っていません」
「笑った」
千佳は勝ち誇った顔で、ドアの方へ下がった。
「じゃあね。準備、がんばって。困ったら言って。私、役に立つから」
「……ありがとうございます」
千佳が出ていく。
部屋がまた静かになる。
静かになって、私はもう一度、引き出しの方を見た。
白い袋。家紋。箱。半月の二つ。
四日後。十四時。
ハヤトさんに渡す。
意味も、言葉も、そのときに言う。
私は息を吸って、ゆっくり吐いた。
逃げない。
準備する。