※この作品はR-18です。

男女比1対100の彼女たちの世界で   作:ののじん

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98話 前日

 前日ってだけで、頭が落ち着かないのは久しぶりだった。

 

 朝、カレンダーを見直す。

 明日の十四時。命の家。

 

 約束はもう決まってる。

 なのに、もう一回確認してしまう。

 

 こひなが足元に鼻を押しつけてくる。

 ココはソファの背からこっちを見て、興味ないふり。

 

「……行ってくるからな」

 

 言ったところで、明日だ。

 自分で言って、少し笑いそうになった。

 

 母さん――沙織が台所から声をかけてくる。

 

「明日でしょ」

「……うん」

「顔が前日」

「前日だよ」

 

 母さんはコーヒーを持ってきて、当たり前みたいに言う。

 

「手土産、いる?」

「いる」

「何にすんの」

 

 俺は一拍置いた。

 命の家だ。軽すぎるのは駄目。重すぎても駄目。

 

「……菓子折り。あと、果物とか」

「無難」

「無難でいい」

 

 母さんが頷く。

 

「じゃあ午後、一緒に買いに行く?」

「一人で行く」

「強がり」

「強がりじゃない」

 

 母さんは笑って、そこで話を切った。

 

「行くならちゃんとした店。あと、紙袋もちゃんとしたやつ」

「分かってる」

 

 昼過ぎ、外に出た。

 日差しが強い。夏休みはまだ続いてるのに、時間だけは容赦なく進む。

 

 店を選ぶ。

 名前が通る店。包装が丁寧な店。余計なロゴが派手じゃない店。

 

 菓子折りを決めて、果物も頼んだ。

 配送じゃなく、明日持っていく。自分の手で。

 

 紙袋を受け取ったとき、妙に現実が来た。

 

(命の家に行くんだ)

 

 あの日、花火の下で好きだと言った。

 命は「はい」と言った。

 

 それだけで十分なはずなのに、明日はその“続き”だ。

 

 帰り道、スマホが震えた。

 

 蓮

『ハヤト! 明日って暇!?』

 

 レンにしては落ち着いた聞き方で、逆に嫌な予感がした。

 

 隼人

『予定ある』

 蓮

『え、なにそれ! 誰と!?』

 隼人

『家の用事。騒ぐな』

 

 そう返してスマホをしまう。

 レンは絶対に騒ぐ。けど、明日は明日だ。

 

 店の紙袋を持ったまま、帰り道を歩く。

 日差しはまだ強いのに、風だけ少しだけ夕方になってきてる。

 

 家の前に着いて鍵を開ける。

 玄関のドアを閉めた瞬間、奥から足音が走ってきた。

 

「ただいま」

 

 黒柴のこひなが、突っ込んでくる。

 こひながまた足元に来た。

 紙袋を嗅いで、尻尾を振る。

 

「これは食べ物だけど、お前のじゃない」

 

 言っても分かってるのか分かってないのか、尻尾は止まらない。

 

 遅れて、三毛猫のココが姿を見せた。

 ココは紙袋の取っ手を一回だけ触って、興味を失ったみたいに去っていく。

 

 母さんが紙袋を見て言った。

 

「お、ちゃんとしてる」

「当然」

 

 母さんはソファに座って、俺を見た。

 

「で、明日、何が起きそう?」

「……分からない」

「分からないか」

「命が『渡したいものがある』って言ってた」

 

 母さんが少しだけ目を細める。

 

「ふーん」

 

 全部分かってそうな顔をする。これは分かってない時の顔だ

 

「受け取る準備は?」

「……受け取る」

 

 母さんは頷いた。

 

「じゃあ大丈夫」

「何が」

「腹が決まってる」

 

 俺は息を吐いた。

 

「……決まってるように見えるだけだ」

「それでいい。そういう男の方が母さん好み」

 

 母さんが立ち上がって言う。

 

「明日、スーツいる?」

「いらない。暑い」

「じゃあ、シャツだけちゃんとしな」

「分かってる」

 

 夜。

 シャワーを浴びて、髪を乾かして、服を選ぶ。

 

 白すぎないシャツ。

 派手じゃない時計。

 靴も手入れしておく。

 

 準備はできる。

 準備はできるのに、頭の端がずっと落ち着かない。

 

 スマホを見る。命からの新しい通知はない。

 それでいい。余計な言葉は、明日でいい。

 

 俺はベッドに横になって、天井を見た。

 

 明日。十四時。

 命の家。

 

 約束の続きが来る。

 

 目を閉じる直前、ふと思った。

 

 もし命が、何か言おうとして――言えなかったら。

 

 俺はどうする。

 押すのか、待つのか。

 

 答えはまだ出ない。

 

 でも、行く。

 行って、受け取る。

 

 明日だ。

 

 そう思った瞬間、目が冴えた。

 寝る前に考えるには、向いてない。

 

 俺は一度起き上がって、スマホを取る。

 命に送るほどの用はない。余計な言葉は増やさない。

 でも、確認しておきたいことが一つだけあった。

 

 ――服。

 

 俺はクローゼットを開けて、シャツを並べる。

 白すぎない。柄はない。変に主張しない。

 

 それを一枚選んで、ベッドの端に置いた。

 

 次に手土産の紙袋。

 玄関の近くに置くと、こひなが絶対に嗅ぎ回る。

 だから、棚の上。届かない場所。

 

 ココは届く。

 届くけど、ココはやらない。たぶん。

 

 そこまでやって、やっと息を吐いた。

 

 準備はできる。

 気持ちは、明日にしか決まらない。

 

 朝。

 

 目覚ましが鳴るより先に目が開いた。

 窓の光が強い。夏休みの朝の光だ。

 

 台所から音がする。母さん――沙織がもう動いてる。

 こひなは俺の部屋の前で待っていた。起きてるのがバレてる。

 

 リビングに行くと、母さんが言った。

 

「早いね」

「起きた」

「前日じゃなくて当日だもんね」

 

 母さんはコーヒーを差し出してくる。

 

「飲んどきな。変に緊張すると胃が死ぬ」

「死なない」

「死ぬ」

 

 母さんは断言する。俺の体を過信しない。

 

 俺はコーヒーを飲んで、スマホで時刻を確認した。

 まだ朝。十四時までは時間がある。

 

 母さんが俺の顔を見て言う。

 

「連絡、しなくていいの?」

「……しない」

「到着予定だけでも?」

「命の負担になる」

 

 母さんは少しだけ目を細めて、それから頷いた。

 

「そういうとこは、ちゃんと分かってるんだ」

 

 俺は返事をしない。

 分かってるから、黙る。

 

 昼前。

 

 シャツに着替えて、髪を整えて、靴を履く。

 派手は要らない。ちゃんとした“普通”で行く。

 

 紙袋を手に取ると、こひなが反射で立ち上がった。

 

「お前じゃない」

 

 こひなは尻尾を振って、でも玄関までついてくる。

 ココはソファの背から見下ろしている。行くのか、という顔。

 

 母さんが玄関まで来て、軽く言った。

 

「行ってらっしゃい」

「行ってくる」

「頑張っておいで」

 

 母さんは笑って、最後にだけ真面目な声になる。

 

「相手が言いたいこと、言える空気だけ作りなさい。あとは本人に任せること」

「……うん」

 

 俺はドアノブに手をかけて、外に出た。

 

 熱気が来る。

 夏の匂い。アスファルトの匂い。

 

 マンションの下には車が止まっていた。

 どうやら御堂家の迎えらしい。

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