あまり寝付けなかったな。
気になることがありすぎて、うつらうつらとしている内に夜が明ける。
彼女はもう起きているだろうか? 朝の支度を終えたギドは、寝室の扉に手を掛けた。
……じゃあじゃあ、ギンガくんって訳だ?
あの言葉が耳から離れない。呼ばれて、心臓が飛び出しそうだった。
ただの偶然。名前を縮めて呼ぼうとすればこうもなる。一つだけなら飲み込めた。
見慣れない格好をしていて、知っているはずのことを知らない。
時折混ざる聞き慣れない言葉と「みみみ」という名前。その殆どが母さんから聞いたものと同じ。
ただ助けたわけじゃない。
聞きたいことは幾らもあった。
「おはよぉ、ギンガくぅん……」
不意打ちだ。にへらと、寝起きで溶けた笑顔に胸が締め付けられる。
ちがう。全然似てない。その筈なのに、懐かしさが振り払えなかった。
「母さん? __ぃ、ぁっ」
口にして、ハッとする。自分でもわからない。
母さんは こんなチンチクリンじゃなかったし。こんな だらしなく笑ったりもしなかった。髪の色も、瞳の色だって。分かってる、なのに……。
「おいでギンガ……にひひっ♪」
やめて ほしい。どうして そんな所ばっかりそっくりなんだ。子供がそのまま大人になったような緩さ。当たり前に育つはずの警戒心がまるでない。人懐っこくて、温かい日溜まりみたいな。
つい、やりすぎた。
からかわれて恥ずかしくなった。子供扱いされてイラついた。
向けられた愛情。その腕の中に飛び込みたい。頭を冷やしたいなら自分で被ればいいものを。
バッシャーン!
次の瞬間には、手にした水桶をひっくり返していた。
「あっ……」声が出たときにはもう遅い。寝室の床も、ベッドの上も、びしょ濡れになった彼女は、両腕を広げたまま項垂れる。
くつくつと肩が揺れ動く。
流石に怒るか。たしかに俺が悪い。少しからかっただけ。彼女からすれば、あんまりに理不尽だ。聞きたいことも何一つ聞けてないまま、関係がこじれるのは不味い。
「その……悪かった」
正しく頭を下げられなかった。妙なプライドが邪魔をする。
昨日拾ってきたばかりの少女に、母親の面影を見てしまってバツが悪い。ぶっきらぼうに呟く俺を、けれど彼女は責めなかった。
「ぷはっ♪ はははははっ♪ ごめんて、そんな怒んなくてもさぁ……♪」
見惚れたんじゃない。
眩しくて目をそらしただけ。翠の髪が朝日にきらめく。お腹を抱えて笑う彼女の姿を、直視できなかった。
*******
森を歩けばすぐ転ける。ウサギを締めれば卒倒する。部屋にクモが出ただけで大騒ぎだ。今放り出したら次の瞬間にはどうなってるかもわからない。
コイツ……今まで良く生きてられたな。
よっぽど過保護に育てられてきたんだろう。
大人しくしていれば見栄えもするのに、落ち着きが足りてない。あっちへフラフラ。こっちへフラフラ。怪我をしたって懲りないで、どうにも目が離せない。
その後姿に面影を追っていた。
幼い日、もっぱら叱られていたのは俺の方だったけど。
「ねーねー、ギンガくんっ。りんごっ、りんご があるよっ♪」呼ばれて顔を上げる。同時に弓を番えた。
「ミドリ……っ。動くなよ、頼むから」
「え、なに?」
ギョッとした。目を離したのなんて数秒もあるかどうか。悪いとは思うけど、説明してる余裕がない。ジンジャに向かうその途中、獣道から外れたミドリは、リンゴの実に手を伸ばしていた。指先は届かない。背伸びをしてようやく触れられるかどうか。ぴょんぴょんと飛び跳ねるのに夢中になって、枝葉に潜んだ蛇の視線に気づいてさえいない。
”これは何?” ”食べれるの?” ”食べていい?”
弾んだ声。輝く瞳。咲いた笑顔の花びらには、言いたいことが ごまんと書いてあった。眩しいまでの好奇心。いや、ただの食欲か? やめてくれ、俺が飯をやってないみたいじゃないか。
矢羽が駆ける。
ミドリが腰を抜かすより早く、蛇が悲鳴を上げた。
ヘナヘナと その場に崩れ落ちた彼女は、ようやく危険を理解する。事切れた蛇を見上げて大きく息を吐いた。
「大丈夫か?」
「う、うん……ごめんね? また、迷惑掛けちゃって」
「無事ならいい。お前みたいのを狙ってるんだから、気をつけろよな」
「お前みたいなのって……」
小動物扱いされた自覚はあるんだろう。ムスッと膨らんだ頬は、そこのリンゴにそっくりだ。言い返したいけど、言い返せない。なんとか立ち上がろうにも指先にすら力が入っていなかった。
「ほら……」
「なんだよぉ、人を食いしん坊みたいにさぁ……はむ」
「そのものじゃねーか」
「にひひっ」
差し出したリンゴを一口齧ったミドリは、ご満悦だ。
小腹が満たされて落ち着いたのか、もうすっかり夢中になっている。
めんどくさ……。
コイツを拾ってからの数日が慌ただしい。アレは何? コレは何? 俺が質問をする前に出鼻をくじかれる。ようやく落ち着いたと思えば問題を起こされた。
世話を焼かされ続けて、結局は何も聞けてないまま。「ギンガくん♪ ギンガくん♪」馴れ馴れしく呼ばれるのにも、すっかりと慣れてしまった。
今度は何だ……。
隣で座る彼女に肩を突かれた。溜息を一つ。顔を向けた俺に差し出されたのは、齧り掛けの赤いリンゴだった。
「あーん♪」
「……」
なんだろうなぁ。自分のほうがよっぽど危なっかしいのに、どうして こいつは ちょくちょく子供扱いしてくるのか。ちょっと背が高いからって、妙にお姉さん感を出してくる。突っぱねてもいい。けれど、それでからかわれるのは面白くはない。「照れてるんだぁ?」ニヤつく顔を思い浮かべるのは簡単だった。
カキンっ……。
いっそ噛みついてやろうかと、思い切って歯を立てた。
懲りるとは思わないが、やられっぱなしも癪に障る。無機質な音が木々の間を飛び回った。舌打ちを一つ。ニヤけ面を湛えた彼女の顔が絶妙に腹立たしい。柔らかい胸の内をカリカリと引っ掻かれるみたいだ。
よせばいいのに……。
取り上げられたリンゴに手を伸ばす。当然彼女は身を引いて、俺に渡そうとはしない。そのまま追いかけっこが始まっていた。自分でもバカをやってるとは思う。
「このっ、ちょこまかと……っ!」
「あははっ。ギンガくんって鬼ごっこは下手な方?」
「いい加減にっ」
「あ、ちょっ、そんなムキになっちゃっ……ぎゃふっ」
「おい、ばかっ!」
手を伸ばした拍子に、ミドリが足をすべらせた。庇おうとして間に合わない。
慌てた彼女に腕を掴まれる。踏ん張りが効かない。勢い余った俺は、そのまま引きずり込まれてしまう。
押し倒して、転がって、見つめ合う。
顔が近い。お互い肩で息をしていた。丸く開いた瞳が水面のように揺れている。
「にひっ……あはははっ♪」子供みたいに笑いだした彼女につられて、俺の頬まで緩んでしまいそうだった。素直にはなれない。小言を言おうと開いた唇を塞いだのは、齧りかけの赤いリンゴだった。