ミドリの事が分からない。
よく笑って、よく怒って、また笑って。そのくせ、泣くのだけは我慢するんだ。
一緒に寝るのがイヤだった訳じゃない。甘えられて、頼られて嬉しかった。
夜が明けてみれば、いつも通り。朝の弱い彼女は、寝ぼけ眼を擦って ぼやけた笑顔を向けてきた。
「おはよぉ……ぎんがくぅん。にひひ」
まるで、何もなかったように。
聞けるわけがない。一体何のつもりだったんだ。少し触れてしまっただけならいい。声を掛けても返事はなかった。胸元におでこを押し付けられたまま、服を強く掴まれる。俺の反応を伺いながら、自分から肌を寄せてくるようだった。
思い返すだけでも、またチリチリとした感じが戻ってくる。
布団に籠もったあの匂い。俺と彼女とが、半端に混ざりあったようなあの感覚。
そういう匂いがした朝は、母さんと父さんは、いつもより仲が良さそうだった。
「ギンガにも、好きな子が出来たら教えてあげる」曖昧に笑った母さんに、鼻先を突かれた。父さんはもっとあからさまに逃げ出した。誤魔化された理由が、今ならぼんやりとでも分かる気がする。
あれから数日。ミドリが布団に潜り込んでくることはなかった。
それ以外がいつも通りすぎて、余計に違和感が強い。
半分はホッとした。でも、残りの半分が喉の途中で引っかかる。一人で寝ることが寂しい。あの日の夜が遠のくほどに、気持ちが強くなる。寝相の悪さに辟易することも多かったけど、彼女の温もりはそれを補って余りあった。
無かった事にする気かよ……。
ミドリに、どう応えたら良かったのか。
男女の駆け引きどころか、やり方すらも曖昧だ。その時、初めて両親を恨んだかもしれない。少しでも教えてもらえていれば、何か違ったのかもしれないのに。
気が緩むと、欲しくなる。心の中がグチャグチャだ。「好き」ってなんだ。
好きな人が出来て、どうしろっていうんだ。それは、執着とどう違う?
怖い。
アイツにも帰る家がある。いつのまにか、両親のことを考えなくなったように。
そのうち、ミドリの事も忘れようとするんじゃないか。楽しかった思い出に蓋をして。また、一人になった自分を想像する。
「ねぇ、ギンガくーん。ちょっとー……」
寝室から呼ぶ声がした。その声だけで、胸の奥が温かくなる。どれだけ悩んでも、結局は彼女に引き寄せられてしまう。少し甘えるように、少し困ったみたいに。いつもと変わらない。俺を頼る声には、なんの陰りもなかった。あんな事がなければ、俺だって変わらずにいられたのに。
胸がざわついた。
自分の気持ちを無視できない。つい、押し付けたくなるのをぐっと抑え込む。
大きく息を吸い込んだ。扉に手を掛けるだけでも勇気がいる。「開けるぞ?」これじゃあ気にしてる事がバレバレだ。声なんて掛けたこともなかったのに。
どんな顔をすればいい。
ここ数日は、まともに彼女の顔も見れていない。ミドリが無かった事にするつもりなら、俺だってそうするべきだ。なのに、出来ない。逸らした視線を僅かに持ち上げる。一瞬でも想像してしまう自分がイヤだった。寝乱れた格好と、起き抜けのだらしない笑顔。それを独り占めできてる自分が誇らしい。期待と不安。その瞬間、微かな胸の高鳴りは溜息に変わっていた。
「なにを……やってんだ?」
「あ、あはは……なん、だろね?」
想像していた光景は微塵もない。目の前の状況を、端的に表す言葉を俺は持っていなかった。母さんや、ミドリの国の言葉を借りるなら、きっとこうなるはずだ。
「妖怪ミイラ女」
どう下手を打ったらこうなるんだ。包帯でグルグル巻きになったミドリが、ベッドの上に転がっていた。胸の傷の手当てをしようとして、そのまま包帯が解けなくなったのか。それとも、単純に暇を持て余して遊んでいたのか。
「妖怪は酷くない?」
「ミイラ女は良いのかよ……」
額に手を当て嘆息する。なんかもう……何なんだ。出会ってからずっと、振り回されてばっかりだ。呆れもしよう。頬が緩みそうにだってなる。さっきまで悩んでいた自分が、もうバカバカしい。
「え、なに? こっちにはいるのミイラって?」
「そっちにはいるのかよ、そんなトンチキなの」
「あははっ♪ ホントだったら怖いよねーってくらいかな。ねぇ、ギンガくん? ねねねーちゃん。ミイラの事なんて言ってたの?」
問われて、言い淀む。咄嗟に言葉が出てこない。
あんまり昔のことは考えないようにしていた。思い出の欠片を指で摘むと、懐かしさが蘇る。いつもは指先が冷えるだけなのに、今日は何だかくすぐったかった。
*******
少し決まりが悪そうに、ギンガくんは鼻の頭を指で掻いた。
「ん? なにって……」
思い出を懐かしむ反面、幼い日の自分を知られるのが恥ずかしい。そんな顔だ。
誰だってそう。私だってそう。今でこそ格好をつけているけれど、心の弱い部分は、そう変わるものじゃない。教えて。知りたい。キラキラ瞳を輝かせて彼を見つめ続けた。根負けしたギンガくんは、諦めたようにポツリと喋りだす。
「別に……。『あんまり怪我ばっかりしてると、ミイラになっちゃうぞ』ってさ」
「あーそれそれ♪ 私も言われたことあるー」
「よく転んでそうだもんな。お前は……」
「ギンガくんだって転んでたんでしょ? 一緒一緒っ」
「一緒にすんな」
懐かしい。ねねねーちゃん、不器用だったもんな。絆創膏ですら上手く貼れないで。ちょっとの擦り傷が、大怪我みたいに見えたもんだ。想像して、吹き出してしまう。包帯でグルグル巻きにされたギンガくんと、名医のように胸を張る お姉ちゃんの笑顔。
「なんだよ?」
「べっつにー。すっ転んで泣いてるギンガくん、可愛かったんだろうなーって?」
「変な想像するな」
「あいたっ……」
弾かれたおでこがくすぐったい。固まっていたギンガくんの雰囲気が、少し和らいでホッとする。でも、これでよかったのかな。いつもどおりの距離感。何もなかった事にしつづければ、いつかは何でもなくなるんじゃないか。
考えて、怖くなる。
居なくなった ねねねーちゃんの事。最初はあれだけ騒がれていたのに、次第に噂にもされなくなった。忘れられるって、こういうことなんだ。
恐怖に震えた訳じゃない。空白だ。心にぽっかり穴が開く。さっきまであったカサブタが、いつ剥がれたのかすら気づかないような。
いつかは私も、そうなるのか……。
イヤだな。
私が好きな人には、私のことずっと覚えていてほしいと思う。さっさと忘れられてしまったら、あんまりに悲しい。どうしよう? ちょっと滅入る。いつか家に帰れたとして、ギンガくんが思い出してもくれなくなったら。結構……。いや、かなりショックだ。
ベッドが軋んで、鼓動が跳ねる。
顔に出さないようにするのも大変だ。隣に座ったギンガくんから、僅かに身を引いてしまった。包帯でグルグル巻になった体。プレゼントは私……出会った頃の方がまだそう言えた。
微妙なんだ……本当に。
私も彼も、細い糸の上で必死にバランスを取っている。
ドキドキしていた。何かされたいような、まだ怖いような。抵抗が出来ない状況に、胸の高鳴りは強くなる一方だ。包帯に触れられて「ひゃっ……」と、変な声まで出てしまう。
「ギンガくんの、えっち♪」
羞恥心すら彼に押し付けた。なんとも思ってませんけど? お姉さん風を吹かせて、なけなしの余裕にしがみつく。いちいち茶化していないと、本気になりそうだ。
「はぁ……。なら、そのままでいろよ」
何が気に障ったんだろう? いつもの私なら、それくらい言うはずだ。
大きく息を吐いたギンガくんは、おもむろに立ち上がる。
「あーっ!? まってまってまってってっ!! ごめんてばっ」
部屋を出ようとする彼を必死に呼び止めた。このまま放置されたら堪らない。寝起きの私は色々限界だった。まな板の上の鯉。ベッドの上で跳ねる私に、色気も何もなかっただろう。私を見下ろす彼の視線は、美少女に見惚れるものじゃない。何か酷く残念なものを見るようだった。
*******
いつも通り。
朝起きて「おはよう」を言って、何にもなかった振りをする。
ギンガくんが何か言いかけるたび、話題の芽をつまむ。流石にもう一度、彼の布団に潜り込む度胸はなかった。けれど、それ以外はいつも通りを演じられていたと思う。
絡んだ包帯を引っ張られて、胸が締め付けられた。
それがどうにもむず痒い。包帯の下は裸ん坊。思い返せばパンツ一丁のままだ。
随分と男前な格好をしているじゃないか。恥ずかしい。何を今更。少し見られるくらいで、ちょっと触られたくらいでさ。
つい、昨日まではまったく平気だったのに。
傷の手当をして貰っているんだ。感謝こそあれ、嫌だなんて思う訳が無い。
「役得だね♪」なんなら軽口だって言えていた。キツメに包帯を縛られて、痛がるまでがワンセット。
「あの……その。そんな丁寧に解かなくてもさ? バッサリ切ってもらえたら」
「そんな勿体ないこと出来ないだろ」
「あ、はい……」
それはそう。私の感覚じゃ、包帯なんて100均でも買えるもの。
でも、ここじゃどうだろう? 珍しくはなくても、安易に消費したいものじゃないのは分かる。
失敗したな。
気持ちが定まらないままフラフラと、境界線を越えてしまった。
男と女。見ず知らずの私達。共同生活にも馴れが出る。約束なんかしなくても、なんとなくのルールみたいなものは出来始めていた。
意識しすぎないこと。
当たり前だ。ちょっと見られたくらいで騒いでいたら、一緒の生活なんて出来やしない。家族みたいなものだって、思うことにしていた。ギンガくんが、ねねねーちゃんの子供だと分かってからは、余計に気が緩む。
「……お前さぁ。ほんとにどうやったら、こうなるんだよ」
「いや、なんかさ? 手が足りなくて、その……ベッドで転がってたらね?」
「なんで呼ばなかった?」
「いやそれは……乙女心?」
「……そんなのあったんだな」
「ひどっ!? ほら見てっ、よく見て、ちゃんと見ろっ!」
「だぁっ、もうっ。分かったから暴れるなっ!」
彼の悪戦苦闘も虚しく、包帯の締め付けはキツくなるばっかりだ。
ああ、本当に止めてほしい。軽口一つ叩きあうだけでも心が揺れる。いま包帯が緩んでしまったら、口から「好き」が飛び出しそう。
平気な顔しちゃってさ。
それが妙に腹立たしい。なんて理不尽なんだろう。先に意識させたのは私なのに。
ギンガくんだって、必死に気持ちを抑えてくれている。部屋に入る前に、声をかけられた。私のせいだ。いつもはそんな事しないのに。
シュルリ……。
締め付けが緩んで、包帯が解けていく。息を吐くと同時に、支えを失くした膨らみが柔らかく揺れた。自由になった両手で胸を隠そうとして、そのまま動けない。
意識しすぎないように。
でも、少しくらい意識されたくて。こっそりと、ギンガくんの視線を目で追っていた。境界線の上で反復横跳びしてるみたい。どうしたって鼓動は弾んでしまう。
見られてる。当然だ。
閉じた指がシーツに皺をつくった。早く、目を逸らしてよ。いつもなら、すぐそうしてくれるのに。視線は未だ胸に触れたまま。見られたくなかった。乳首とからならまだ……。いや全然良くはないけど、良かったのに。気遣わしげに傷痕を見られているのが、どうにも耐えられない。
名誉の負傷。
そう胸を張っては見せたけど。女の子としては、やっぱり複雑だ。
まして、それが必要になった時。どうしたって後悔はやってくる。あの時、もっと気を付けてさえいれば……。
ゆっくりと、優しく、包帯が巻き直されていく。
体を起こされた私はされるがまま。両手を上げて じっとしていると、なんだか最初にあった時みたいだ。でも、あの時のドキドキと、今のドキドキは全く別の音。あれだけ苦戦した傷の手当も、ギンガくんに任せれば、あっさりと終わってしまった。それが、少しだけ寂しい……。
「ごめんね、変なの見せちゃって」
傷痕のこと? 体のこと? 自分でも何に謝ってるのか分からない。
それを口にした瞬間、ドスンと罪悪感が伸し掛かる。
最悪だ。言われたい言葉は一つだけ。こんなこと言われたらさ……。ギンガくんだって、他に何も言えなくなるのに。
「ばーか」
言われて背中を叩かれた。「きゃんっ」と悲鳴を上げた私は、ヒリつく背中を庇ってベッドに倒れ込む。呆れたような顔をしている。見上げたギンガくんは、つまらなそうに鼻を鳴らすと、さっさと立ち上がってしまった。
「またバカっていうし……。こちとら怪我人なんですけど?」
「だったら遠慮なんかするなよ。手間が増える」
「……はーい」
それだけ……か。
まあ、そうだよね。何を期待していたんだか。少しでも考えてしまった自分が恥ずかしい。「……ばか」彼の背中に投げつけた。聞かれてしまっただろうか? 部屋の扉を開いたギンガくんは、足止めて振り返る。まぁ、聞こえたから何だって話だけど。どうせ、私の気持ちなんて分かりやしないだろうし。
「ミドリ……」
「なに?」
むすっと完全に拗ねた私は、ぶっきらぼうに返事を返す。
一瞬何を言われたのか分からなかった。目を見開いて背中を追いかけても、揺らいだ尻尾が扉の向こうに消えた後。
ズルいんだ。
「変じゃない」彼の言葉を繰り返す。どうせなら「綺麗だ」くらいは言ってほしかったけど、それは求め過ぎ。それよりもだ。去り際の最後の言葉。「あんまり見せびらかすな」て、なにさ。そりゃ、私のなんてお粗末なものでしょうけど……。
違う。
傷痕に気兼ねしたのでも、ましてそれが見てられなかったわけでもない。
去り際の横顔。彼の頬は真っ赤に染まっていた。
「なんだよ、それ……」
ベッドに顔を埋めて、足をバタつかせる。
気持ちが逸って仕方がない。布団を抱きしめた私は、きっとイモムシみたいだっただろう。お腹が苦しくなった。さざ波が背筋を伝う。太もも引き寄せた私は、ふと思い出してしまった。
そういえば、トイレに行きたいんだった。