成人男性だった時の話をしよう。
元の年齢は三十六歳。中小食品メーカーの営業勤務で、ドブラック&パワハラ上司に消耗品のようにこき使われる日々だった。
毎日乗りたくもない満員電車に揺られ、オジサン達にもみくちゃにされ社会の歯車として浪費され。
取引先に下げたくもない安い頭を下げ続けて。
嗚呼、こんな人生ならもうログアウトしてもいいんじゃないかとナチュラルに思っていたあたり、当時の俺はちょっと病んでいたのかもしれない。
そんな時だった。
「…………へぇあ」
朝起きたら美少女になっていた。
導入が雑だって?
事実そうなってたんだから仕方ないだろうがコラ。
「なにこれ……えぇ……めっちゃ美少女……」
寝室にある姿見の前で、俺はぺたぺたと自分の頬や身体を触りながら呆然と立ち尽くしていた。
身長は目測で百五十四センチほどだろうか。
以前の俺からすれば子供のような視線の低さだが、鏡に映るその姿は子供なんて言葉じゃ片付けられない、完成された美貌を持っていた。
腰まで届く、手入れされた絹糸のような白銀の髪。
それをかき上げると露わになるのは、日本人離れした彫りの深いハーフのような整った顔立ち。
瞳は怪しくも美しい、吸い込まれるような真紅の色をしていて、ただそこにいるだけで周囲の空気を浄化しそうなほどの「清純」なオーラを纏っている。
だが、その聖女のような顔立ちとは裏腹に、首から下は暴力的なまでの肉感を持っていた。
華奢な肩幅に、キュッと手で掴めそうなほど細くくびれた腰。
それに対して、アンバランスなほどに主張する胸部の膨らみは異常だ。
推定Hカップはあるだろう豊満な果実は、薄いパジャマ越しでもわかるほど重たげに、たわわに実っている。
視線を下にずらせば、安産型を思わせる柔らかな腰つきに、触れれば指が沈み込みそうなほどマシュマロのようにムチムチとした太もも。
清廉潔白な顔立ちに、男の性癖を詰め込んだような抱き心地の良さそうなだらしない肉体。
「……なにこの……エロゲのパッケージみたいな身体……」
鏡の中の美少女──俺は、自分の身体ながらゴクリと喉を鳴らして見入ってしまったのだった。
「なにがなんだかわからないが……ヨシ! ひとまずは病院だな!」
即断だった。
当たり前だろうが。自分の身体の異変……肉体が変わるとか以前に性別まで変わってるんだぞ。
恐怖しかないわ。
死ぬんか、わしゃ。
「死にたくない……死にたくないよぉ……」
めそめそ泣きながら救急車をタクシーの如く呼び付け、会社からの鬼電をガン無視し、到着した病院で事情を説明するにつれて段々胡散臭いモノを見る目になっていく医者の判断の元、あらゆる精密検査を行ったのだった。
「TS病ですね」
「死ぬんでしょうか……」
「死にませんよ。とりあえず泣き止んでください」
全ての検査を終え、未だメソメソ泣きながら医者の話を聞くとこうだ。
TS病。
それは、世界各地で誰にでも起こりうる奇病である。
世の認知は低く、おそよ百万人に一人程度の確率で前触れなく、突然罹るらしい。
今のところ、何が原因で罹るとどうなるかはよくわかっていないとのこと。
染色体がどうのこうのと言われたが専門でもなく右から左へ言葉が通り過ぎていったので割愛させていただこう。
「まぁ、命に別状はありませんよ。死亡例は聞きませんし、むしろ健康体になったという話まで聞きます」
「なんだぁ! 死なないんですね!」
びっくりさせやがって。
大号泣しながら搬送中の救急隊にしがみついて命乞いしてたのがバカみたいじゃないか。
救急隊の人も困ってたわ。
「一応数日の入院と……確認ですが、国の専門機関へ連絡を入れます。法律でTS病患者は報告義務があるので」
「まぁいいですケド……」
こうして。
元・男性。現・美少女の「俺」の社畜的な日常はあっさりと終わりを告げたのだった。
★
数日後。
病室のベッドの上で、俺は呆けていた。
「えっ……。じゃあ、俺の……三十六年の人生は……?」
「戸籍上は『行方不明』扱いですね。TS病は発症した時点で別人格として登録される特例法がありますので。貴方は今日から、身寄りのない十八歳の少女として新しい戸籍が与えられます」
淡々と告げるのは、国から派遣されたという黒スーツの女性だった。
切れ長の目に、銀縁メガネ。冷徹さを絵に描いたような美人だ。
……そう、後の俺のマネージャーである。
「そ、そんなぁ……! 上司の理不尽に耐えて積み上げたキャリアが! 雀の涙ほどの退職金が! あとちょっとで完済だった車のローンがぁ!」
俺が頭を抱えて絶叫すると、彼女は眉一つ動かさずに書類をめくった。
「借金やローンは元の戸籍と共に凍結されます。資産はありませんが、負債もありません。ゼロからのスタートです」
「あ、それはラッキー」
「現金ですね」
彼女は呆れたように息を吐くと、俺の顔をジロジロと値踏みするように見つめてきた。
まるで商品を検品するような、冷ややかな視線。
「……で、今後の身の振り方ですが。生活保護を受けるか、斡旋する仕事に就くか選べます」
「……社会の目が怖いので働きますぅ……」
社畜根性が染み付いている俺は、即座に労働を選んだ。
すると、彼女はニヤリと……獲物を見つけた肉食獣のように口角を上げたのだ。
「いい心がけです。では、貴方には『適性』がありますので、こちらのコースを推奨します」
「適性? 事務ですか? 営業ですか? エクセルならマクロ組めますよ!」
「いいえ。──アイドルです」
「はい?」
俺の思考が停止した。
なに言ってるんだコイツ。
「鏡を見ましたか? その顔、その身体。百年に一度の逸材です。
事務員にしておくには国家的な損失レベルです。
私がプロデュースします。貴方は黙ってニコニコしていれば、年収数億も夢じゃありません」
「いやいやいや! 無理ですって! 中身オッサンですよ!? 加齢臭しますよ!?」
「しません。今はフローラルの香りです。
……それに、貴方。元の会社に戻りたいですか? パワハラ上司に怒鳴られる日々に」
「………………くっ!」
その言葉は、俺にとって悪魔の囁きだった。
戻りたくない。死んでも戻りたくない。
年収数億。あくせく働かず、ニコニコしてるだけでチヤホヤされる人生……。
「や……やります! やらせてください! 拾ってください!」
「契約成立ですね。……では、今日から貴方の名前は『如月八重』です」
こうして、俺のアイドル人生は強制的にスタートした。
だが、この時の俺はまだ知らなかったのだ。
この世界が、美少女に対してどれほど「甘く」「優しい」かということを。
「八重ちゃん、注射痛くない? 大丈夫? 手、握っててあげようか?」
「八重ちゃん、病院食じゃ味気ないでしょ? コンビニでプリン買ってきたよ」
「八重ちゃん、荷物重いでしょ? 持つよ!」
入院中も、退院してからも。
医者も、看護師も、すれ違う人も、みんなが俺に優しかった。
怒鳴られない。舌打ちされない。理不尽な要求をされない。
最初は「天国か?」と思った。
けれど、一ヶ月も経つ頃には、俺の中の『社畜の魂』が悲鳴を上げ始めていたのだ。
「違う……なんか違う……。俺みたいな底辺の社畜は優しくなんてされるべきじゃない……」
過剰な優しさは、いつしか毒となり。
俺は、心の奥底で歪んだ願望を肥大化させていくことになる。
──誰か、俺をゴミのように扱ってくれるご主人様はいないのか、と。