クラスで浮いてるあの子は俺と性行為の練習をしている 作:黒宮魚
月本と最後に話してから一週間が経った。
俺の高校生活は月本と話す前に戻った。学校に来ても特別誰と話すでもなく、授業が終われば家に帰る。放課後の秘密の練習もない。
月本はあれから特に変わらないように見える。昼休みの今も、喧噪の中ただ一人自分の世界にこもったように読書にいそしんでいる。
そんな彼女を無意識に見ている俺に気づく。俺は散歩でもしようと席を立った。
あの時の月本の言葉がずっと忘れられない。
『本当にそんな人だったんだ』
恐怖と失望の目。俺も少しは誰かと関われる、と思った矢先にあれだ。自分のしたことに後悔が滲む。
でも煮え切らないものも残る。月本だってあの動画だけで俺を決めつけたんだ。俺の話を聞こうともしないで。
――でも、本当にそうだったんだろうか。今になって考えても仕方のないことだった。
「った」
終わらない思考に入り込んでいた俺の肩に重い衝撃があった。
階段を上った先の曲がり角。ちょうど歩いていた男子生徒とぶつかってしまった。
「うわっ、ちょ、あっ!」
派手な音を立てて転ぶ。どうやら荷物を運んでいたようで、ダンボールの中に入った書籍類が床に散乱する。おまけに近くの壁に貼ってあった掲示物が何枚か破れてしまった。
「おいどこ見て歩いてんだよ近藤」
転んだ男子生徒はすぐに立ち上がり、俺を睨みつけてきた。同じクラスの里口だった。やけに体格がいいから覚えている。
「そっちだって前見てなかっただろ」
かちん、ときてその目を睨み返す。穏便に流せるほど器用じゃないし、今は気が立っている。
「は? こっちは荷物は運んでんの。普通気ぃ遣って避けるだろ」
「知らねーよ」
正直、考え事をしていてよく見てなかったのは確かだ。
だけど向こうだって俺とぶつかったときに俺に背中を向けていた。大方近くで慌てているもう一人の男子と喋っていたんだろう。
「おい片付けくらい手伝えや」
背中を向けて立ち去ろうとした俺の肩を里口の手が押さえつけた。
「知らねーってんだろ」
それを振りほどきながら目を向ける。それで里口の目が吊り上がった。
「スカしてんじゃねぇよ近藤!」
低い声が廊下に響く。遠くにいた生徒も驚いてこちらに目を向けた。
「あ?」
振り向いて一歩近づく。頭に血が上って熱い。だいたいイラついている時にぶつかってくるそっちが悪いんだ。
しかし、その熱は急に覚まされた。
「あー、ちょっとちょっとごめんね! ここは片付けとくからねー」
年配の男性が割り込んできた。いつも着ているグレーの作業服が特徴的な用務員さんだった。険悪な空気を察して入ってきたのかもしれない。
そういえばさっきので壁の掲示物が床に散らばっている。用務員さんは手早くそれを掃除し始めた。
「ほら、それ運んできない」
里口が「あ、はい」と持っていた荷物を拾い上げる。ちらりと俺に鋭い視線を向けながら。
俺はそれを一瞥して踵を返した。
「はい、それじゃ気を付けて帰れよー」
昼休みのあと、何事もなく授業は進み帰宅時間になった。教室はにわかにざわつきだし、談笑を始める者や足早に部活に向かっていく者など、それぞれのことをしだす。
そんな中、揉めかけた里口のところに学級委員がやってきていた。何かを話し出したと思ったら、里口が不意に俺を指さした。学級委員に手招きされる。
「なんだよ」
「いやね、三階の掲示物が里口くんが事故ではがしちゃったと聞いたから張り直して欲しいんだよね。ただ里口くんは用事あるらしいから、一緒にいたっていう君に頼もうかなって」
顔をしかめる。里口に目を向けると、ちょうど口を開いた。
「俺、部活いかないとでさあ。そもそもそっちがぶつかんなけれりゃ落とさなかったしお前やっといてくれよ」
口調は抑えているが、目に怒りがこもっていた。
「は? だからそっちがよそ見してたのが悪いんだろ」
昼休みに急冷された熱が再燃する。びき、とこめかみに力が入った。
「そりゃ近藤だって同じだろ。てかあのあとの片付けは俺がやったんだから、こっちはお前がやれよ」
「だから、知らねーってんだろ」
明らかに沸点が低くなっている、とどこか冷静な自分が気づいた。
でも今更気づいても制御なんてできない。それで上手くいきかけていた月本との関係も壊したんだから。
「どうせお前友達もいねーしヒマだろ? こんぐらいやって貢献しろよな」
その一言が引き金になった。ぶちん、と頭の血管が千切れる音が聞こえた。ぎゅ、と右手が拳を形作る。
「てめ――」
勝手なことを、と続くはずだった。けど俺の口はなぜかそこで止まった。
遅れて思考が追いつく。ここでキレるのは違う、と本能的にそう思った気がする。
「……わかっ、たよ。俺、やっとく」
ぼそり、と下を向いて口にした。何にも納得してない声だな、と自分でもわかった。
「わかりゃいーんだよ。じゃ、頼むな」
キレかけた俺が急に落ち着いたことに驚いたのか、里口の返答が遅かった。
ちらりと目を向けるとにやついた表情だった。癪で仕方なかったが我慢した。
「じ、じゃあ近藤くん。生徒会室に行ってもらってきて張り直しをお願いするよ。これ、掲示物のリストね」
わかった、と気のない返事をしてメモ書きを受け取る。
学級委員は俺が受け取ったのを見ると、足早に離れていった。顔を上げると、クラスの何人かと視線が合ったが、すぐにそらされた。
視界の端に月本がいた。彼女は俺のことを見てもなく、相変わらず読書に耽っていた。今しがた起こったことなんて気にも留めていなそうだった。
俺はメモ書きをポケットに突っ込み、教室を後にした。
「ふぅ」
プリントを一枚張り終え、一つ息を吐いた。
プリンターの調子が悪かったようで、掲示物を受け取るのに思ったより時間がかかった。
おかげで時刻はすっかり夕暮れ。画鋲を押し込んだ右手が橙色に染まっている。廊下からも人気が消えていた。
さっさと終わらせよう、と考えたところでやめた。別に早く終わったところでやることなんてもう無い。里口が言っていた通り友達なんていないのだし。
「近藤くん」
不意に耳に入る、聞き覚えのある声。静まり返った廊下で、その声はやけにクリアに聞こえた。
「――月本」
振り向かなくてもわかった。つい一週間前までは聞いていた声だったんだから。
「……もう話さないんじゃないのかよ」
「少し聞きたいことがあったから。終わったら帰る」
手を動かしながら、ぼそりと呟く。月本の顔を見る勇気はなかった。
月本の淡々とした声は少し離れたところから聞こえる。距離を取られるのは当然ことだ。
「なんだよ」
「なんでさっき怒らなかったの」
プリントに画鋲を刺す手が止まった。
勝手に頭に再生されるつい先ほどの一幕。
「見てたのかよ」
「みんな見てたからね。私だって聞くぐらいするよ」
用意していたみたいに、月本は即答した。
「教えてよ。聞いたら帰るから」
「どうでもいいだろ。俺のことなんかもう顔も見たくないだろ」
苛立ちが自分の声に出ていた。
月本と話してるとあの日のことを思い出してしまう。胸がざわざわして、怒りなのか後悔なのかわからない感情が湧き上がってくる。
「私は、あなたのことがわからない」
月本がぽつりと呟くように言った。
「近藤くんは私のことを殴ろうとした。さっきだって同じになるって思った。……でも、あなたはそうしなかった」
だから知りたい、と。月本は告白するようにそう答えた。
手に持った画鋲は刺す直前で止まっている。そこに力が入ったまま、手が動かなかった。
「私のことを思い出したから?」
答えない俺に、月本は続けた。
「……違う」
俺は首を横に振った。
月本のことは確かに一瞬思い出した。あの動画みたいに、月本にしたように、また同じことをするんだろうとあの時思った。同じになってもいいとさえ思ったんだ。
でも。
「俺は……前みたいにキレるのは違うって思った」
あの時はただそう思った。でもその理由がわからなかった。
一人になって処理能力の低い頭でゆっくり整理して、ようやく少しわかってきたところだった。
「頭にきたし実際あのまま殴ってた、とも思う」
拙いながら整理が出来てきた理由を一つずつ口にする。
「でもそうしたら、無駄になるって思ったんだ」
「無駄。……何が?」
変わらないトーンで月本が問うてくる。まるで教師に質問するみたいに。
きっといつもの澄まし顔が浮かんでいるんだろう。放課後、一緒に話していた時のような。
「月本と話すようになって、俺は少しだけ他人と喋れるようになったんだ。でもあそこでまたキレたら、月本としたことが全部無駄になる。……それは違う、って――イヤだって思った」
変化もない高校生活の中で、あの時間は俺にとって大切だった。
月本に対して収まらない感情はあるが、それでも自分の中で大切だったということは変わらなかった。今だって、また月本と話せているこの時間がイヤだなんて思っていないのだから。
だから、その思い出すら自分の手で壊してしまうのはしたくなかった。
「そんだけだ。……ほら、これでいいだろ」
言葉にして初めて整理できた感情。言ってみれば、どこまでも自分本位な理由だ。すっきりしたと同時に、恥ずかしさが出てくる。
しかし月本は足を動かさなかった。黙ったまま、少しの時間が流れる。
「そっか。……まだ、そんな風に思ってたんだ。私みたいな、人の話を聞かない人間と話したことなんて、全部忘れてるんだと思ってた」
その言葉に、思わず俺は振り向いた。からん、と手に持っていた画鋲が廊下に転がる。
窓から差し込む夕日を背に、月本が立っている。手を伸ばしても届かない距離。でも俺の目を覗き込む月本の瞳はしっかりと見えた。
「月本、それは違――」
いや、そうか。俺は月本にそう思わせるだけのことをした。
「月本は俺の話を聞いてくれた。強く言いすぎたり冗談が通じない俺と話してくれたじゃないか」
月本の目が見開かれる。
「話を聞かなかったのは俺だ。……月本。あの時、お前はあの動画のことをちゃんと聞こうとしてくれてたんだよな」
冷静に考えたら当たり前のことだ。本当に俺のことをあの動画だけで決めつけたんなら、わざわざあの日俺に会ってはくれなかっただろう。
でも月本は来てくれた。怖いって思っていたはずなのに、訳を聞くために俺と話そうとしてくれていたんだ。
そんなことに今気づいた。
「ごめん。……勝手に決めつけられたって勘違いして、月本にひどいことをした。本当にごめん」
頭を下げて、自分ができる限りまっすぐな声で謝った。許してほしいとまでは思わない。でも、せめて今度は自分の言葉で月本と向き合わなくちゃいけないと思った。
小さく、息を呑む音が聞こえた。それから静寂がしばし俺と月本の間を満たす。
「顔、上げてよ」
月本らしくない、ぼそりとした声。
言われるがまま顔を上げると、眉を八の字にした月本と目が合った。だがすぐにそらされる。
「まだあなたのことは、怖い」
廊下に視線を落とし、月本が言う。右手は頼りなく左腕の制服を掴んでいた。
「でも怖いだけがあなたに対する全てじゃない。優しいところもあったし、今みたいに謝ってくれた。――私だってきっと近藤くんのことを決めつけてた」
目を伏せる月本は、彼女らしからぬ自信無さげな顔をしていた。しかしそれでも、次の言葉は俺をまっすぐに見て告げた。
「私は、あなたのことを知りたい」
呼吸が止まった。数秒かけて、月本の言葉を飲み込む。
最初に思ったのは驚きだった。あんなことをしたのに、そう思ってくれるなんて。
しかしそれ以上に、嬉しいという気持ちが抑えられなかった。
「月本。俺も月本のことを知りたい。……だから、前みたいに放課後二人だけとかじゃなくて、休み時間とかでいいから――また、俺と話してくれないか」
考える前にそう口に出していた。思わず一歩月本に足を踏み出して。でも月本は逃げはしなかった。
月本の口が小さく開いたまま固まる。しばしのあと、その表情から力が抜けた。
「うん。またれんしゅ――」
彼女の言葉が止まる。そして、いつかのような微笑で告げた。
「また、私の話し相手になってよ」