クラスで浮いてるあの子は俺と性行為の練習をしている 作:黒宮魚
長い階段を駆け下りる。無機質で薄暗い空間に、バタバタと慌ただしい足音が響いている。
上のほうから追ってくる足音が聞こえているが、だいぶ距離を開けることができたらしい。
妙に長い階段だ。しかも途中に扉もない。不気味さを覚えるが、はやる気持ちが俺の足を勝手に動かしていた。
「はあ、はっ、はーっ……」
息が上がってきたころ、ようやく最下層までたどり着いた。膝に手をつきながら息を整える。
しかし、ゆっくり休憩してもいられない。俺は額の汗を手で拭い、重い出口扉を開いた。
「――――」
ぎぎ、鈍い音を立てながら開けた先に広がっていたのは、薄暗い廊下だった。人影はなく、不自然なほど静まり返っている。
ごくりと息をのみながらも、黒い絨毯の上を歩みを進める。ばたん、と背後のドアが閉まった音にびくりとしてしまった。
少し進むと、月本が降りてきたらしきエレベーターホールにたどり着いた。近づいてディスプレイを見ると、「B」の表示で止まっていた。この階で止まって、もうどこかに行ってしまったということだろうか。
どちらにせよ進まないとわからない。俺は廊下の奥へ進んでいく。
小部屋らしきドアがちらほらあるが、中から人の気配はしない。曲がり角や分かれ道も多く、まるで迷路のようだった。
「何でこんなところに……」
静かな空間の中、さすがに頭が冷静さを取り戻してきた。同時に、とんでもないことをしている自覚が襲う。
無理やり入ってきて今も逃げている最中。警察を呼ばれても文句は言えない。
だが、入り口で見た月本のことがどうしても頭を離れない。明らかに普通じゃない格好と雰囲気だった。
勝手な解釈だが、「だめ」と俺に伝えたのも月本の本心に思えなかった。
「ん?」
考え込みながら歩いていると、冷気が頬を撫でた。顔を上げると、目の前には二つに分かれた突き当たりだった。
かすかだが右から冷たい空気が流れてきていた。俺は引き寄せられるように足を向けた。
「さむっ……」
進むと寒さが強くなる。背筋がぞくりとした。
少しもしないうちに、行き止まりにたどり着いた。そこには両開きの鉄扉が据え付けられていた。錆のせいか、赤黒く変色している。
その扉の隙間から冷気が吹き出していた。近づくと、その隙間の先に赤い揺らぎが見えた。
炎、のように思えた。俺はそこを覗き込もうと顔を近づけた、が。
「見つかりました?」
「いや、全然。全く、なんでこんな大事な時に……」
背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「やばっ」
振り向くとまだ姿は見えていないが、さっき曲がってきた角の先から来ているのだろう。
考える前に俺は道を戻り、さっき曲がらなかった方の廊下へ走った。
「いたぞー! こっちこっち!」
曲がり角を駆け抜ける瞬間、横目で数人の影を捉えた。当然俺に気づき、追いかけてきた。
あまり距離が離れていない。このままだとすぐに追いつかれると直感した。
俺はここ一番の全力で走って距離を突き放し、近くにあったドアノブに手をかけた。幸い、鍵は開いていた。
急いでその中に入り、中のサムターンで鍵をかけた。
しばらくすると、ドアの向こうを何人かの足音が通りすぎていった。
「はぁー……」
ドアを背に大きく安堵の息を吐いた。力が抜けて、そのまま座り込んでしまう。
「いや……何やってんだ俺」
反射的に逃げてしまったが、大人しく捕まった方が丸く収まっただろう。こういうのは逃げれば逃げるほど罪が重くなるものだ。
だがいざここから出るのも勇気がいる。頭を悩ませながら室内をうろうろと歩き回る。
ここは小さな部屋で、壁一面の本棚と小さな机と椅子がある。資料室のように思えた。
ふと、部屋の隅の机に目が留まる。小さなデスクライトがつけっぱなしになっていて、橙色の暖かい光を放っている。
それに照らされた机の上には、一冊のファイルが開いたまま置いてあった。ファイルそれ自体は小ぎれいだが、挟まれている紙はかなり黄ばんでいる。
「なんだこれ……」
古びたその紙には、見知らぬ誰かの似顔絵らしきものと文章が記されていた。かなりの達筆でろくに読めなかった。
ページをめくると、また同じような資料。途中からは白黒写真に変わり、文字も読める程度のものになっていった。どうやら何かの名簿らしい。
「日出……トメ?」
見知った名字に目が止まる。白黒写真に若い女性が映っている。当然見覚えなんてない。
もう一ページめくると、また見知らぬ誰かについて記された資料。しかし、今までは一枚に一人だったが、そこには二人載っていた。
男と女。一人はまったく知らない名前。
「月、本」
もう一人の写真は全く知らない男性だったが、「月本」の姓があった。
さらに、ページの最上部に書かれた赤文字が目に入った。
『調停者ノ精神的負担ヲ軽減シ、其ノ任務ヲ全ウセシムル為、相互ニ連繋シ同調シ得ル者ヲ選抜ス』
意味は分からない。だが理由もわからず胸がざわついた。
そこから先のページは全て男女一名ずつの情報が記されていた。そして、一番最後のページ。
「……っ!」
言葉が出なかった。
そこに書かれていた男女を俺は両方とも知っていた。
月本香澄と日出純也。顔写真も俺が知っている二人に間違いはなかった。
なんだこのファイルは。なぜ月本と日出が載っている。それにそれまでのページに書かれていた人物は何の関わりがあるというのだ。
もう一度最初から読み直そうとページを戻す。しかし。
「君」
読むのに夢中になり、背後のドアの鍵が開けられた音に気づきもしなかった。
肩を叩かれ振り向くと、俺を追っていた中の一人の男性が立っていた。
俺がファイルを読み直すことは叶わなかった。
「しばらくここで大人しくしていてくれよ?」
見つかってしまった俺は別の部屋に連れていかれた。
俺に付いていた二人の男性のうちの片方がドアを開け、ほら、と中に入るよう言われる。はい、と頷きその言葉に従った。
見上げたその男性は三十代くらいだろうか。スーツを来たその男は威圧感があるが、不法侵入者である俺に高圧的な態度は取らなかった。
「あの、俺はどうなるんすか」
「それはまだ検討中。とりあえずここにいてくれ。警察呼ぶのも考えているからね」
釘を刺すように言って、俺に背を向けた。一緒にいたもう一人に何かを話して、部屋から出ていった。
少し若そうなもう一人の男性は部屋に残り、ドアの横に椅子を持ってきて座った。監視役ということだろう。
俺も座るかと部屋を見渡す。ここもさっきの部屋と同じで、教室半分くらいの小さな部屋だ。棚がいくつかと、雑多に置かれた物。物置部屋らしい。
片隅に置いてあったパイプ椅子に座った。
警察、とさっきの人は言っていた。中学の頃の例の事件で一度お世話になったことがあるからか、もう何でもいいやと、俺は逆に開き直っていた。
何もすることもできず、座って待っているとドアが開いた。
「失礼します」
礼儀正しく挨拶をして、一人の少年が入ってきた。それを目にした瞬間、思わず立ち上がった。
「――日出」
呟いた俺を一瞥したが、監視役の男性と話し始めた。
「僕から話しますよ。少し外してください」
「そうかい? もうすぐなんだし無理しないでいいんだよ」
「大丈夫ですから」
軽く会話をすると、男性は心配そうな顔をしながらも部屋を出ていった。
そうして二人になる。
「日出、お前ここは――」
「待って」
溜まりに溜まっていた疑念を、一番投げかけやすい相手。考えるより口が先に動いたが、それがわかっていたように日出が制した。
「落ち着いて。まずは僕から話をさせてほしいな」
「んなこと――」
「君は言ってしまえば不法侵入者だ。客観的に見てこっちに主導権があるはずだよ」
至極まっとうな意見に、反論の言葉も出なかった。
押し黙った俺に、日出の表情からこわばりが消えた。
「うん、近藤くんはカッとなりやすいけど話はわかる人だよね」
見慣れた人当たりのいい日出に少しだけ戻った。しかしいつもの制服姿ではなく、純白の羽織のような衣装を着ている姿に異質さを感じた。
一歩近づき、俺の目の前に立って日出は口を開いた。
「単刀直入に言ったほうが君の性に合うよね。――何も見なかったことにして家に帰ってもらえるかな」
まっすぐに俺を見つめて、誠実さすら感じさせる言葉だった。
「そうしてもらえば警察にも通報しない。僕らも今夜君とは何も関わりがなかったということにする」
俺が何か言う前にそう付け加える日出。誠実そうでいて、有無を言わさない迫力があった。
ごくりと喉を鳴らしながらも、それに負けじと答えた。
「ヤダっつったらどうなるんだよ」
「警察を呼ぶ」
即答だった。俺が首を横に振れば、本当にそうするのだろうと感じさせる態度だ。
しかし、はいわかりましたと引き下がるわけにはいかなかった。俺が何のためにここに来たのか。その目的は全く達成されていない。
「じゃあ月本のこと教えてくれよ。あいつもここにいるよな。ここで何してんだよ」
「答えられない。何も見なかったことにしてほしいって言っただろう?」
「言えないってことはそっちもやましいことあるんだろ。警察呼んだらお前らだって不味いんじゃねーの?」
「別にそんなことはない。ここは届け出もちゃんと出してる施設だからね。たとえ中を調べられても困らないよ」
俺の反論なんて想定済みとばかりに、一呼吸で答えられる。同級生なのに、面接官を相手にしているみたいだった。
だが逆にその態度に腹が立つ。明らかに何かを隠しているのに、開き直ったかのように堂々と答えているのだから。
「いい加減にしろよ。おかしいだろ。月本の転校が取り消しになったの知ってんだぜ。それにお前この間月本のこと知ってて隠しただろ」
今度は即答されなかった。痛いところを突けたのだろうか。
しかしそう思ったのも一瞬で、日出はため息を吐いて目を伏せた。
「わかった。もういい。警察に通報するからしばらくそこで待っててくれ」
そのまま俺に背を向けて出口に歩いて行こうとする。これ以上は無駄、という態度だった。
いい加減それにカチンと来た。
「っざけんな! お前ら月本に何しようとしてんだ!」
日出の肩を掴み引き留める。
顔が熱い。掴んだ右手でそのまま肩をえぐってしまいそうな力が入っている。
「君には関係ないだろ」
鋭い視線を俺に向けて低い声で短く答える日出。学校での彼からは想像できない口調だった。
「ああ? こんな地下部屋も作りやがって、どうせお前らイカれたカルトなんだろ。月本にふざけたことしてんじゃねーぞ!」
しかしそれに触発されて、積もった疑念と憤りが爆発する。殴りかかりそうになる自分を押さえつけるのに必死だった。
「何も知らない癖に勝手なことを言わないでほしいな!」
空気を裂くような声が部屋にこだました。あっけにとられていると、日出は俺の手を払いながら振り返った。
目を吊り上げて、静かな敵意をむき出しにしている顔だ。
「ああ知らねーよ! 言えないようなことしてんだからな、お前らは!」
怒気を見せた日出に対し、俺だって止まることはできない。指を差し、突きつけるように言い返した。
「君はこの街で自分が平和に生きてる理由を考えたことがあるかい? 無いだろう。それが当たり前だからね。それを誰が守っているなんて考えもしないだろう」
「あ? お前らが平和守ってるってんのかよ。スーパーヒーローでもいるってのか」
挑発も込めて言った言葉に、日出はひりついた声で静かに答えた。
「この辺りは犯罪率や事故件数が極端に少ない。それに自然災害すらほとんどない。これはデータに基づく事実だ。そしてそれは偶然じゃない。そういう風にされているんだよ」
反射的に飛び出しかけた否定の言葉が喉に引っかかる。本当にこの辺りはそうだからだ。
俺はそのことを深く考えたことなんてなかった。だが客観的にみれば不自然だ。ぞく、と背筋に悪寒が走った。
「は、はぁ……? 何言ってんだお前。そんなの……偶然だろ。は、はは、こじつけもいい加減に――」
「ふざけるな!」
唐突に、日出は先ほどよりも強く声を荒らげた。響いたその怒鳴り声に、キン、と耳鳴りが貫いた。俺をにらみつける日出に、思わず言葉が止まる。
一瞬で静まり返る部屋。天井から噴き出してくる暖房の風音が俺と日出の間を通り抜けていく。
「僕には兄がいた。でも僕が小学生のころに自動車事故で亡くなった」
日出は視線を俺から外し、怒気を押さえつけたような声で話し始めた。その両手は強く握し締められている。
「両親と兄と僕の四人で買い物に行くところだった。でもタイヤのパンクで突っ込んできたトラックと衝突したんだ。両親は大怪我で今でも後遺症が残ってる。……兄さんはトラックとの衝突点に一番近くて即死だった」
日出にとって思い出したくないことなのだろう。言葉に混じる震えは俺への怒りだけではないと感じた。
痛ましい話に、口をはさむことはできなかった。
「でも隣に座ってた僕は軽い打撲だけだった。こんなの普通じゃない。それはそうなるように操作されたんだよ」
「操作って――何で、そんなこと。……てか、何だよ操作されるって」
オカルトじみたことを言う日出に、当然の疑問を投げかける。
「『調停者』がそうしたんだ。僕が後継だから。そうに決まってる。……そうじゃなきゃ、おかしいんだ」
ぎり、と音が聞こえてきそうなほど食いしばり、日出は吐き捨てるように言った。まるで俺じゃない誰かに言っているように。
日出の言っていることを信じることはできない。あまりに非現実的過ぎる。だが頭ごなしに否定できるほど筋の通っていない話でもなかった。
「……月本は何の関係が」
そこまで言いかけてはっとした。断片がつながり、気づきたくない事実を描き出してしまう。
「お前と月本が……その調停者とかいうやつになんのかよ」
俺と目線を合わせた日出は、何も言わなかった。
「そうなったら、お前らはどうなるんだよ」
「言う必要なんてない。もう君とは会えないんだから」
目を伏せながら、どうでもいいとばかりに言った。
「……は? お、おい、会えないってなんだよ! 死ぬってことかよ? 俺もお前らもまだ高校生なのにそんなのおかしいだろ!」
「君に言われたくないな! 君にだって責任の一端はあるんだ!」
思わず詰め寄った俺を跳ね返す勢いで、日出が吠えた。
「俺、が……? な、何言ってんだよ」
予想だにしていない言葉にたじろいてしまう。
「もういい。話し過ぎたよ。僕はもう行く。」
それ以上無駄だと思ったのか、再び俺に背を向けた。
「おい! 話は終わってねーぞ! 月本はどうなるんだよ!」
「うるさい」
ぼそりと短く吐き捨てられる。日出のほうは俺とは反対に、怒りが鎮まり、もう終わったことのような態度だった。
「大体そんなに香澄に執着してる理由は何だ。君は香澄の一体何だっていうんだ? 答えてみなよ」
振り向かず、軽蔑すら感じさせる口調で問われる。
「俺、は」
その先の言葉が続かなかった。
俺は月本の何だ。友達? それとも少し違う。だが俺の頭は相応しい名前を出してくれなかった。
「言えないだろう。なら君にこれ以上話す必要ない」
そう言い残し、日出は部屋を後にした。俺は呼び止めることもできず、ただそこに立ち尽くすしかなかった。扉の向こうに去っていく足音が酷く遠くにあるように思えた。
入れ替わるように監視役の男性が入ってきて、同じようにドア横に座る。俺をどうするか、何か言っていたような気もするが聞こえなかった。
それからしばらくの間、日出に言われた言葉を頭の中で反芻していた。この街の平和の理由、調停者なる存在。
オカルトなのか、それとも本当なのか俺の中に答えが出せなかった。
「……い、おい! 君!」
「え?」
不意に聞こえてきた声に顔を上げる。見ると、監視役が俺の肩を掴んで揺さぶっていた。
「さっき言っただろう。部屋を移動するからついてきてくれ」
どうやらさっき日出が出ていった後にそう言っていたらしい。言われるがまま立ち上がり、男の後に続いて部屋を出る。
かすかに遠くから歌声のようなものが聞こえた。だが思考を継続したままの俺にはどうでもよかった。
歩いているうち、逃げていた時に来たエレベーターホールを通りすぎた。黒い絨毯を踏みしめながら、日出が最後に言った言葉を考える。俺は月本香澄の何なのか。
そもそも俺にとって月本はどんな人間だ。クラスメイト。話し相手。友達。どれも言葉の意味は合っていても、本質から外れている気がした。
「とりあえず通報はしてないけど、もう逃げないでくれよ。純也くんの気遣いに感謝してくれ」
「え? あ、はい」
前を歩いている監視役から話しかけられ、反射的に相槌を返す。どうやら警察を呼ぶのは日出の意向で勘弁してくれたらしい。
「外は今大雨らしい。止むまではここに置いておく。でも鍵がかかる部屋にいてもらうよ。わかってくれるね」
はい、と軽く頭を下げる。当然の処置だろう。俺もわからないことだらけで、これ以上何かする気も起きなくなっていた。
日出たちがやろうとしていることも、月本のことも何も――。
「ん? ほら、ちゃんとついてきてくれよ」
言われて、顔を上げると男性は少し離れたところにいた。遅れて、自分が立ち止まったからだと気づいた。
「……そうだ」
俺は月本のことがわからない。彼女の背負った役割とやらも何も知らない。
でも知りたいと思った。月本が俺のことを知ろうとしてくれたから。それがここまで彼女を追ってきた理由だと気づいた。
「あっ、君!」
振り向いて思い切り地面を蹴った。後ろから呼び止める声が聞こえる。だが、滑りそうになる足を踏み出してもと来た道を走る。
エレベーターホールを横切るころには、後ろの監視役の姿は見えなくなった。
日出が言っていたことが嘘だと否定もできない。俺の行動は間違っているのかもしれない。
それでも俺は知りたい。月本が背負ったものも、それを彼女自身がどう受け止めているのかも。そのために走った。
遠くから歌声が聞こえる。宗教音楽のような歌を遠くで何人もが合唱しているように聞こえた。本能的にその方向に走った。
「この道は……」
しばらく走っていると、見覚えのある通路にきた。突き当りの分かれ道。そこを右に曲がると、赤黒い鉄扉が待っていた。最初に逃げているときに目にしたものだ。
冷気とともに歌がその向こうから聞こえてくる。俺はその扉を蹴破る勢いで開け放った。
そこは体育館ほどはあるホールだった。扇形に長椅子が置かれ、百人以上はいる信者たちが座って歌を歌っていた。
ホールの電灯はほとんどなく、奥のほうで炎がいくつか揺らめいている。そこには祭壇のようなものと、また扉があった。扉の前に立つ見知った人影が二つ。
日出と、もう一人。どこまでも遠くを見ているような澄まし顔。少し前まで近くで見ていた顔。
「月本!」
しかし声は届かない。遠くにいる上に、周りの合唱の声に俺一人の声などかき消されてしまう。いきなり入ってきた俺に誰も気づいていないのがそのいい証拠だ。
祭壇の上で白装束をまとった二人は、こちらに背を向けた。そして、目の前の扉へゆっくりと歩き出した。
刹那、その先に行ったらもう会えなくなる気がした。
しかし、俺の体がそこへ走っていくことはできなかった。
「おい! 逃げるなって言っただろう!」
後ろから床に押さえつけられた。もう追いつかれてしまった。じたばたと暴れたが、所詮高校一年生の力では成人男性に敵わなかった。
「君は言ってもわからないようだね。ここで見てるんだ。彼らが責務を果たすところを」
背中を押さえられたまま、叱るように言われた。
促されるまま祭壇を見上げると、月本と日出の目の前の扉が開いた。中は眩しいほど白く、よくは見えなかった。そして、ゆっくりとその中へ歩いていく。
周囲の荘厳な雰囲気の合唱に包まれたそれは、まさしく儀式だった。俺はただそれを見ていることしかできなかった。
「つき、もと……」
力ないつぶやきは誰に届くこともない。扉は閉まり、二人の姿は俺の視界から完全に消えてしまった。
全身の力が抜けて、がくりと顔が床を舐めた。目の前が真っ暗になる。信者たちはまだ歌っているが、俺の耳から少しずつその音が遠ざかっていく感覚がした。
しかし。それから数分も立たずに一つの異変が起きた。周囲の歌声が止まったのだ。
「出てきたぞ」
「どうしたんでしょう……?」
「まさか失敗――」
にわかにざわめき出すホール。力の入らないまま顔を上げる。ホール内の信者たちは、何か不安げな顔を浮かべている。
そして、祭壇に視線を向けた時、目を見開いた。扉の向こうに行ったはずの月本がそこにいた。
しばらくせずに日出も扉から出てきた。日出は早歩きで祭壇から降りると、袖にいた男性と何やら話し始めた。
「おい、繋がれなかったのか」
「どうなんですかね」
「では彼女一人で……」
「それでは彼女が――。そもそも何のために二人で……」
不安が伝播しているのがわかった。いったい何が起こったのかは部外者の俺には何もわからない。だが月本と日出がしようとしていたことが上手くいかなかったのだろうとは吸い卒が付いた。
まだ祭壇の上にいる月本を見る。彼女は両手で自らの体を抱くようにして身をかがめていた。怖がるような、怯えているような顔だった。
いつかの記憶が呼び起される。空き教室で、月本の肩を掴んで腕を振り上げた時。
ぞわ、と不安が俺の体を包む。月本を怖がらせないと誓ったことが鮮明に頭を駆け抜ける。
「なあ、何が起きた」
俺を押さえていた監視役が近くにいた信者の一人に話しかける。その瞬間、俺にかかる力が緩んだ。
迷いなどなかった。絨毯に爪を立てて立ち上がり、拘束をほどく。後ろで驚いた声が上がるがそんなの知ったことではない。
今度こそと足を前へと踏み出し、信者たちの中を駆け抜ける。
「月本!! 来い!!」
祭壇へ駆け上り、手を伸ばす。
俺の声に気づいた彼女が顔を上げる。人形のような白い顔にさしている陰り。伏せた目が見開かれる。
遠くを見るようなその瞳に、俺が映った。
「――近藤、くん」
呆然とした声。けれども、月本はその細い腕を伸ばした。
頼りなく伸ばされた右手。俺の左手は、確かにその手を握った。