聖暦2055年。
ネオ・ヤマト連邦管轄、居住コロニー「アマテラス」第四層。
この国が掲げる「精神的伝統回帰」のドクトリンに従い、居住区画は二十世紀末の極東の地方都市を模して設計されていた。
頭上百メートルに広がる巨大なスカイ・スクリーンには、完璧にプログラムされた「秋晴れの空」が投影されている。
赤とんぼのホログラムが飛び交い、どこか物悲しい夕焼けのメロディが微かに流れているが、時折空を走る走査線のノイズが、ここが厚さ五メートルの隔壁に閉ざされた真空の孤島であることを住人に思い出させる。
午前七時三十分。
木造モルタル風に塗装された集合住宅「青葉ハイツ」の二階。
201号室の住人、サトル(32歳)は、玄関のドアスコープに額を押し当て、息を潜めていた。
彼は宇宙港の貨物税関職員だ。毎日、膨大な密輸品や違法アセットのデータを選別する彼の眼球は、壁一枚隔てた隣人の生活をも、冷徹なデータとして監視し続けていた。
ガチャリ、と隣のドアが開く。
魚眼レンズの歪んだ視界の中に、サヨコ(28歳)の姿が映り込んだ。
「いってらっしゃい、あなた。お弁当、忘れないでね」
彼女の装いは、このコロニーの配給品そのものだ。
毛玉の浮いたベージュのカーディガンに、洗濯を繰り返して色褪せた紺色の膝丈スカート。
腰には、小花柄の白いエプロンが巻かれている。
決して裕福ではない。
だが、サトルはその「古び方」にこそ、倒錯した価値を見出していた。
コロニー特有の日光不足で透けるように白い肌。
うなじで緩く束ねられた漆黒の髪。
そして、夫に渡す弁当箱を持つ指先は、日々の炊事と洗濯で赤く荒れ、所々に安っぽい絆創膏が巻かれている。
(……美しい)
サトルは、ドアスコープ越しに熱い吐息を漏らした。
洗練された「セラフィック・オーダー」の聖女や、機能的に研ぎ澄まされた「連合」の女兵士にはない、圧倒的な生活感。
それは、熟れすぎて地面に落ちる直前の果実のような、腐敗と隣り合わせの儚い美しさだった。
「ああ、行ってくるよサヨコ! 今夜こそ、美味い寿司でも買って帰るからな!」
ドタドタと無神経な足音を立てて現れたのは、夫のマサシだ。
人の良さそうな顔をしているが、ワイシャツの裾ははみ出し、ネクタイは曲がっている。
彼は「サヨコを幸せにする」と口癖のように言うが、その実、怪しげな儲け話に手を出しては家計を圧迫し、彼女という名画を疲労(生活)で曇らせている元凶だ。
「……もう、無理しないでね。電気代の督促も来てるんだから」
「大丈夫だって! 今回の投資は『連邦公認』の確実なやつだからさ!」
マサシが駆け出していく。
サヨコは小さく溜息をつき、寂しげに微笑んで手を振った。
その笑顔の裏にある疲労と諦めを、サトルは見逃さない。
サトルは玄関から離れ、リビングのソファに深く身を沈めると、業務用の携帯端末を起動した。
税関職員のIDで、一般人がアクセスできない非公開のブラックリスト・サーバーへ接続する。
画面には、赤い警告色と共にマサシの名前が表示されていた。
『監視対象:タナカ・マサシ』
『関与案件:投資ファンド「銀河開拓」(宇宙海賊「レッド・スカル」のフロント企業)』
『ステータス:証拠隠滅に伴い、本日正午“清算”執行予定』
サトルは冷めたコーヒーを啜った。
苦い味が舌に残る。
「連邦公認」など大嘘だ。
マサシは海賊の資金洗浄に利用され、用済みになったのだ。
今日の午後、彼は港湾区のどこかで「不慮の事故」に遭うだろう。
画面の隅には『緊急通報』のボタンが点滅している。
今押せば、あるいは匿名でデータを港湾警備隊に転送すれば、マサシの命は助かるかもしれない。
サトルは指先をボタンの上に滑らせ――そして、ふっと力を抜いた。
「……処理は、明日の朝でいいか」
彼は慣れた手つきでデータを「保留フォルダー」へとスワイプし、端末の電源を落とした。
それは、彼が日々の業務の中で行う、ほんの些細な事務処理の先送りに過ぎなかった。
邪魔なノイズ(夫)は消去される。
これは悲劇ではない。
サトルがサヨコという「芸術品」を修復し、永久保存するための、必要な下処理(プ ロ セ ス)なのだ。