崩壊は、天気予報のように正確に訪れた。
マサシは港湾区の資材搬入口で、暴走した無人フォークリフトに挟まれ、即死した。
警察と労働局は、現場検証もそこそこに「操作ミスによる事故」として処理した。
裏社会からの圧力がかかっている証拠だ。
そして一週間後。
通夜を終えた夜、サトルは202号室のチャイムを鳴らした。
ドアが開くと、そこには廃人のようになったサヨコが立っていた。
喪服代わりの黒いワンピースはサイズが合っておらず、鎖骨が痛々しく浮き出ている。
頬はこけ、目の下には濃い隈(くま)が刻まれていた。
部屋の奥には、赤い紙――「差押命令書」が無造作に散乱している。
かつて漂っていた温かい味噌汁の匂いは消え、代わりに線香の煙と、生活が破綻した家特有の、埃っぽい匂いが充満していた。
「……サトルさん。ごめんなさい、お構いもできなくて」
「いいえ。……労働局の監査が入ったと聞きました」
サヨコの肩がビクリと跳ねた。
ネオ・ヤマト連邦において、借金は単なる経済的失敗ではない。
「家門の恥」であり、市民権剥奪の正当な理由となる。
「……はい。主人の借金、利息を含めると……とても返せる額じゃなくて。『公序良俗保持のため』、明日には……」
彼女は唇を噛み締め、震える声で続けた。
「……強制施設(慰安コロニー)へ、移送されるそうです」
言葉にした瞬間、彼女は泣き崩れた。
軍属や労働者のための公娼施設。
そこで待っているのは、人格を破壊されるほどの過酷な性的奉仕と、終わりのない搾取だ。
この国でそこへ落ちることは、死よりも深い汚辱を意味する。
サトルは屈み込み、彼女の震える背中にそっと手を置いた。
今だ。
彼は最も誠実で、最も残酷な切り札を切った。
「サヨコさん。一つだけ、逃げ道があります」
「え……?」
「『家内更生特例法(かないこうせいとくれいほう)』をご存知ですか?」
彼女が顔を上げる。涙で濡れた瞳に、縋るような光が宿る。
「本来は親族が使う制度ですが……借金を第三者が全額肩代わりし、対象者をその人間の『個人資産(プライベート・アセット)』として登録することで、施設送りを免除する特例措置です」
サトルは懐から、一枚の電子書類を取り出した。
そこには既に、借金全額の弁済証明と、資産譲渡契約の条項が記されている。
「私の退職金と、親の遺産をすべて使いました。これで、君の借金はなくなります」
サヨコは書類を見つめ、そしてゆっくりとサトルの顔を見た。
彼女の瞳に浮かんだのは、純粋な感謝だけではない。
警戒と、困惑、そして「大人の諦め」だった。
見ず知らずの他人の借金を、数千万単位で肩代わりする男。
その意味を理解できないほど、彼女は子供ではない。
「……サトルさん。どうして、そこまで……?」
彼女の声が震える。
サヨコは悟っていた。
この親切な隣人は、ずっと自分をそういう目で見ていたのだと。
借金を払う代償。
それはつまり、彼の愛人――あるいは性奴隷――になることだ。
(……でも)
彼女は脳内で天秤にかけた。
慰安コロニーに送られ、見知らぬ男たちに毎日犯され、ボロ雑巾のように捨てられる未来。
それとも、顔見知りの、穏やかで(少し気味は悪いが)暴力的ではないサトル一人の慰み者になる未来。
答えは明白だった。
「……分かりました。ありがとうございます」
サヨコは覚悟を決めたように立ち上がると、震える手で喪服の胸元に手をかけた。
ジィッ、とファスナーを下ろす音が、静まり返った部屋に響く。
喪服がはだけ、白い肌と質素な下着が露わになる。
彼女なりの、契約に対する「誠意」であり、自分を売り込むための必死の媚態だった。
「私……身体くらいしか、お返しできませんが……。好きにして、ください……」
その瞬間、部屋の温度が氷点下まで下がったかのような錯覚が走った。
サトルは無言のまま、サヨコの手首を掴んだ。
乱暴ではない。
だが、そこには明確な拒絶の力が込められていた。
「……っ?」
サヨコが顔を上げる。
サトルは、露わになりかけた彼女の白い肌を隠すように、強引に、しかし丁寧にファスナーを引き上げた。
布が擦れる音が、冷ややかに響く。
「……安売りはしないでください、サヨコさん」
その声は穏やかだったが、どこか、躾のなっていない子供を叱る教師のような響きがあった。
「僕は対価など求めていない。……ただ、美しい君が損なわれるのが耐えられないだけだ」
サヨコは呆然とした。
身体目当てではない?
この人は、本当にただの善意で、私を救おうとしているの?
彼女の目から、今度は安堵の涙が溢れ出した。
地獄の淵で、本物の聖人に出会ったような錯覚。
彼女は知らない。
その言葉が、精神的な意味ではなく、物理的な劣化を指していることを。
「ごめんなさい……私、浅ましいことを……。信じます。私でよければ、なんでも言ってください……っ!」
彼女は泣きながら、電子ペンで契約書にサインをした。
サトルはそれを受け取り、満足げに微笑んだ。
「ありがとう、サヨコさん。これで君は、永遠に守られる」
サトルは大切そうに契約書を懐にしまった。
その眼差しは、愛する女性に向けられたものでありながら、どこかガラスケースの中の美術品を値踏みするコレクターのようでもあった。