佐々木 遥 (ささき はるか) 22歳
都内の大学4年生(就職活動を終え、卒業を待つ身)
真面目で他人に迷惑をかけることを嫌う控えめな性格
いやー、今日の結婚式、最高だったなー。
友人代表のスピーチは緊張で声が裏返ってたけど、それが逆にグッときて、
二次会もめちゃくちゃ盛り上がって、気づけばもう終電もない時間。
「遥、大丈夫?送ろうか?」
「ううん、平気。タクシーで帰っちゃうから」
友達の気遣いは嬉しかったけど、この幸せな気分のまま、一人で帰りたかった。
大通りに出て、空車の赤い光を探す。
ちょっと贅沢だけど、まあ今日くらいはいいよね。
すぐに一台のタクシーが停まってくれた。
最近よく見るスライドドアのやつじゃなくて、なんかカクカクした昔ながらのセダン。
乗り込むとドアが重たい音を立てて閉まる。
途端にツンとくる匂い。
(うわ、なんか臭い…。芳香剤きつすぎでしょ)
安っぽい森の香りが何か嫌な匂いと混じってて、最悪の組み合わせだ。
遥は眉をひそめ、深くシートに体を沈めた。
「川崎市の宮前区まで、お願いします」
バックミラーに映る運転手は、いかつい顔つきのオジサン。
小田切、とプレートにある。
「はい」とだけ短く答えると、すぐに車を発進させた。
(感じわるー…。まあ、別にいっか)
今日の出来事をぼーっと思い出すには静かな方がちょうどいい。
車が発進してすぐ、最初の赤信号で停まった時、それまで黙っていた運転手がぽつりと言った。
「長距離ですから。サービスです」
差し出されたのは一枚のクッキーだった。
(え、クッキー? なんで?)
ちょっとびっくりしたけど、まあ、「いらないです」って言うのも変か。
「あ、ありがとうございます」
受け取って、何気なく口に放り込む。味は普通のクッキーだった。
高速に乗って、オレンジ色のライトが流れていくのを眺めていると、だんだん眠くなってきた。
うとうとしていた、その時だった。
なんだか……おかしい。
ふと、我に返った時には下腹部に鈍い重みを感じていた。
(なんか、トイレ行きたいかも)
シートに座り直す。
でもその動作すら膀胱にダイレクトに響いてしまう。
冷たい汗が背中を伝い始めた。
二次会で飲んだお茶が今ごろになって襲いかかってきているのだろうか。
(ヤバい、これ結構、本気のやつだ)
スマホを取り出して地図アプリを開く。
次のサービスエリアまであと10km、港北PAだ。
時速100kmで走っているなら、6分もあれば着く計算だ。
我慢できる、絶対に我慢できる。
「あの、すみません」
震える声で運転席に話しかけた。
運転手はバックミラーでちらりと目を上げる。
「次のサービスエリアで、トイレに行きたいんですけど...」
「…わかりました」
短く、そして平坦な返事。
でも遥にとっては救いの言葉に聞こえた。
港北PAまで我慢すればいい。
あと少し、あと少しだけだ。
窓の外に「港北PA 1km」の青い看板が見えてきた。
心臓が高鳴る。
もうすぐだ。
シートの上で体をよじりながら、必死に足を組み換える。
でもそのたびに、熱い塊が下腹部で波打つような感覚に襲われる。
分岐点が近づいてきた。
白いラインが左に伸びている。
タクシーは、そのラインに近づいていく――かと思った瞬間、突然右の追い越しレーンに入った。
「あ...」
声が出た。
看板が背後に流れていく。
港北PAは、もう遠くに小さく見えていた。
「今、通り過ぎました! 港北PAです!」
必死に叫ぶが、運転手は前を向いたまま、ハンドルを握りしめているだけ。
メーターの数字が淡々と増えていく。
遥の、膝の上で握りしめた拳が震えていた。
運転手からの返事はない。
ただ、静かにアクセルが踏み込まれ、速度が上がっていく。
――この人、わざとだ。
頭の中で何かが冷たくなっていく。
故意に通り過ぎたのだ。
自分の悲鳴を聞いて、それでも無視したのだ。
希望が消えた瞬間、体はもう限界だった。
下腹部の圧力が爆発し、熱い液体が勝手に流れ出す。
最初はちょろちょろと、それがどんどん勢いを増して――。
シートに響く、生々しい音。
自分の耳にも、はっきりと聞こえた。
温かいものが太腿を伝い、冷たいシートに吸い込まれていく。
安っぽい芳香剤の匂いの中に、今は生々しいアンモニアの臭いが混じり始めた。
遥は顔を両手で覆った。
声を出せない。
ただ、熱い涙が指の間からこぼれ落ちる。
体が小刻みに震えている。
シートがじわじわと湿っていく感触がお尻から伝わり、恥ずかしさで全身が焼けるようだった。
運転手は、それでも無言だった。
ただ時折、バックミラーで後部座席を確認するような仕草が見えた。
遥は窓に額を押し当て、外の闇を見つめ続けた。
街灯の光が涙で歪んで見える。
あとどれくらいだっただろう。時間の感覚がなかった。
ただ、体の中から何かが全部抜け落ちていくような、空っぽの感覚だけがあった。
タクシーがゆっくりと速度を落とし、見慣れたマンションの前に停まった。
エンジンが止まると重苦しい沈黙が車内に満ちた。
運転手が初めてゆっくりと振り返った。
濡れて黒く変色したシートを顎でしゃくるように示す。
「クリーニング代、2万円いただきます」
その声には、感情のかけらもなかった。
まるで壊れた椅子の修理代を請求するような冷たい事務的な響きだった。
遥は震える手で財布を開けた。
一万円札を二枚、折り曲げて男に渡す。
その指先は、まるで氷のように冷たかった。
ドアを開けると、いつの間にか降り始めていた夜の雨が熱のない頬を打った。
遥は振り返らなかった。
ただ、エントランスの明かりに向かって必死に走った。
濡れたスカートが足に絡まり、何度もよろけた。でも、振り返ることはできなかった。
エレベーターの中で自分の姿が鏡に映った。
涙でくしゃくしゃになった顔、腰のあたりが暗く染まったスカート。
嗚咽がこみ上げてきた。
四階までの数十秒が永遠のように感じられた。
部屋に飛び込むなり、シャワーを浴びた。
熱い湯が体を包み込む。
でも、どれだけ体を洗っても、あの芳香剤とアンモニアの混じった匂いが、鼻の奥に残っているような気がした。
ベッドに倒れ込んで、遥は布団に顔を埋めた。
今日は親友の幸せな笑顔を見に行ったはずだった。
あんなに楽しかったはずだった。
でも今は、ただ闇の中で、小さく震え続ける自分がいた。