奥村 沙織 (おくむら さおり) 29歳
大学図書館の司書。
几帳面で物静かな性格。物事が計画通りに進むことに安心感を覚える。
土曜の夜。
特別展の準備で閉館後の図書館は深夜まで慌ただしかった。
最後の資料を所定の位置に戻し、施錠を確認した時、沙織はどっと疲れが噴き出すのを感じた。
「お疲れ様です、奥村さん。これで明日は少し楽になりますね」
後輩の司書が安堵の表情で声をかけてくる。
「ええ、そうね。ありがとう、助かったわ」
沙織は微笑みで返しながらも、頭の中では既に明日のタスクリストが自動的に生成されていた。もはや職業病だ。
同僚たちと連れ立って大学の正門を出たのは、とうに終電の時間を過ぎてからだった。
「……タクシーにしましょう」
独り言のように呟き、彼女は迷わず大通りへと足を向けた。
乗り込んだのは古びた濃紺のセドリック。
ドアが閉まると強い芳香剤と何か別の物が混じった嫌な匂いがした。
沙織は眉をひそめ、ハンカチでそっと口元を覆った。
「多摩センター方面まで、中央道でお願いします」
運転手は「はい」と短く、感情の乗らない声で答えると、ゆっくり車を発進させた。
高速に乗る手前の最後の信号で車が停まった時、不意に運転手が口を開いた。
「サービスです。遅くまで、お疲れ様です」
ぶっきらぼうな口調だったが、そこには意外にも労いの響きがあった。
差し出されたのは冷たく冷えた小さな栄養ドリンクの瓶だ。陳腐なラベルの、どこにでも売っているような製品だった。
「……いえ、そんな」
反射的に断ろうとしたが、運転手の「お疲れ様です」という一言が、彼女の疲弊しきった心に小さく染みた。
それに、瓶のキャップにはまだ封が切られていない。
この一日、まともに口にしたのは昼食のサンドイッチだけだったことを思い出す。
「あ……どうも、すみません。いただきます」
礼儀として、そのささやかな親切を無下にするのは気が引けた。
彼女は瓶を受け取ると、軽く会釈してキャップを捻る。カチリと軽い音がして封が切れた。
疑う理由など、どこにもない。
甘ったるい液体を数口だけ喉に流し込むと、人工的な甘味と共に、わずかな苦みが舌に残った。
車が高速道路に入り、単調な景色が続く。
三十分ほど経った頃だろうか。
沙織の体に経験したことのないような、重たい眠気が襲いかかってきた。
(……え? なに、これ……こんなに眠いなんて……)
普段、乗り物で眠ることは絶対にない。
ましてや見知らぬ運転手との密室空間なら、なおさらだ。
しかし、抗おうとすればするほど思考が鈍り、まぶたが鉛のように重くなっていく。
(だめ……寝ちゃ、だめ……)
それが彼女の最後の抵抗だった。
彼女の意識は、ぷつりと糸が切れるように途絶え、深い底なしの闇へと沈んでいった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
沙織は体の内側から突き上げてくる奇妙な感覚によって、意識の深い水底から引き揚げられた。
頭が靄のかかったように、ぼうっとしている。
思考が定まらず、自分がどこにいるのか、何をしていたのか、すぐには思い出せない。
ただ、下半身にじわりと広がる生温かい不快な感覚だけが、やけに鮮明だった。
(…なに? これ…)
まだ覚醒しきらない頭で、必死に状況を理解しようとする。
耳の奥で微かな水音が聞こえた。
じょろじょろ、じょろじょろ……。
それは自分の体から発せられている音だった。
そしてその音と共に生温かい液体が内腿を伝い、座っているシートに染み込んでいく感覚があった。
その事実を認識した瞬間、沙織の脳は氷水を浴びせられたかのように完全に覚醒した。
(うそ……!)
おしっこ。
私が、今、この場所で、おしっこをしている。
眠っている間に始まってしまったそれは、彼女が目覚めた今この瞬間も、止まる気配を見せない。
自分の意思とは全く無関係に、体内のダムが決壊したかのように、ただ流れ出し続けている。
(止まって、お願い、止まって、止まって止まって!)
心の中で狂ったように叫び、下腹部に、全身に、ありったけの力を込める。
だが、体はまるで他人のものであるかのように麻痺し、ぴくりとも言うことを聞かない。
自分のものであるはずの肉体が完全に制御不能に陥っているという絶望的な事実。
沙織はただ、自分の体から絶え間なく溢れ出す熱い液体が上質なグレーのスカートと、ざらついた布地のシートをじっとりと濡らしていくのを意識があるまま感じ続けるしかなかった。
羞恥と混乱と恐怖が、ぐちゃぐちゃに混じり合って、彼女の思考を焼き尽くしていく。
やがて、体内の水分が全て出きってしまうと、後に残ったのは濡れそぼった下半身の冷たい不快感と、車内に充満し始めたツンと鼻をつくアンモニア臭、そして、耳が痛くなるほどの完全な沈黙だけだった。
沙織は小刻みに震える体を制御できないまま、ゆっくりと顔を上げた。
バックミラーの中で運転手の目が、じっとこちらを見ていた。
そこには何の感情も浮かんでいなかった。
驚きも、嫌悪も、同情もない。
ただ、学者が実験動物を観察するかのような冷たく無機質な光があるだけだ。
その視線が雄弁に物語っていた。
運転手は、この状況をすべて知っていたのだ。
この屈辱的な惨事が偶然ではなく、意図的に引き起こされたものであることを。
その視線から逃れるように、沙織の目は虚ろに彷徨い、そして、ルームミラーの横に固定された小さな機械に吸い寄せられた。
点滅する緑色の光。ドライブレコーダー。
自分の最も醜悪で、屈辱的で、人間としての尊厳を踏みにじられた瞬間の一部始終が、この機械に、この男の目の前で記録されている。
その事実が最後のとどめだった。
声にならない絶望が彼女の喉を締め付けた。
もう、泣くことさえできなかった。
自宅マンションのエントランス前にタクシーが滑らかに停車するまで、沙織はまるで魂の抜けた人形のように、後部座席で動けなかった。
濡れたスカートが肌に張り付く感覚が彼女の汚辱を絶えず意識させた。
ドアが開く気配もない。
男はエンジンを切ると事務的な口調で言った。
「メーターが1万2千円。それと、シートのクリーニング代で3万円。合計で4万2千円になります」
沙織は財布の中身を思い浮かべ、絶望的な気持ちになった。
そんな大金、持ち合わせているはずがない。
「…カードで、お願いします」
かろうじて、それだけを絞り出すのが精一杯だった。声は自分のものではないように、か細く震えていた。
男は無言で頷くと、ダッシュボードの下からポータブルの決済端末を取り出し、振り返って後部座席に差し出した。
その無感動な動作の一つ一つが沙織の心を削り取っていく。
彼女は震える指で財布からクレジットカードを取り出し、男に渡した。
見られたくない。
自分の名前が刻まれたカードを、この男に触れられたくない。
だが、他に選択肢はなかった。
男はカードを受け取ると、端末に金額を打ち込み、ICチップを差し込んだ。
ピ、ピ、ピ、と無機質な電子音が車内に響き、取引が承認されたことを告げる。
カードとレシートが無言で突き返される。
その短いやり取りの間も、男の視線は一度も彼女の目と合うことはなかった。
ただ、汚されたシートと彼女の下半身を値踏みするように見ているだけだった。
よろめくように車を降り、エントランスの自動ドアを抜ける。
冷たい大理石の床を踏みしめ、エレベーターに乗り込む。
鏡に映った自分の顔は血の気を失い、まるで死人のようだった。
カチャリ、と鍵を開けて自宅のドアをくぐる。
いつも通り、塵一つなく整頓され静寂に満ちた部屋。
彼女が心血を注いで維持してきた完璧な秩序の世界。
その完璧さが、今は鋭い刃となって彼女を突き刺した。
この清潔な空間の中で、自分が世界で一番汚れていて、修復不可能なほどに壊れてしまった異物のように思えた。
沙織は玄関のたたきに崩れ落ちた。
膝をつき両手で顔を覆う。
だが、涙は出なかった。
ただ、喉の奥から嗚咽ともつかない、押し殺した獣のような呻き声が漏れるだけだった。