※この作品はR-18です。

そのタクシー、下り方面   作:たちばなさとし

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事件簿08 善人の仮面

 伊藤 結衣 (いとう ゆい) 20歳

 都内の大学に通う二年生。

 少し気弱で周りの顔色をうかがってしまう性格。人に嫌われることを恐れている。

 

 土曜の夜。

 吉祥寺で開かれたサークルの飲み会は、まあまあ楽しかった。

 憧れの先輩と少し話せたのは嬉しかったけど、緊張して何を話したか、あまり覚えていない。

 反省と、わずかな後悔で胸がいっぱいになりながら、結衣はタクシー乗り場へと向かった。

 埼玉の寮までは、ここからだと、かなり遠い。

 

 幸い、タクシー乗り場の列は短かった。

 ほどなくして、古びたセダンが目の前に止まり、結衣はタクシーへと乗り込んだ。

 車内は強い芳香剤の匂いがする。

 

「埼玉の方まで、高速でお願いします」

 

 運転手は「はい」と短く答える。

 その無愛想さに結衣は少しだけ体を強張らせた。

 車がゆっくりと動き出し、街の明かりが窓を流れていく。

 

「今日は、化粧濃すぎたかな……」

 結衣は窓に映る自分の顔を見ながら、指で目の下のくまを軽く押してみた。

 

 最初の信号で停まった時だった。

 運転手が「サービスです」と言って、クリームの入った洋菓子を差し出してきた。

 

「えっ、いいんですか?」

 結衣は思わず聞き返す。

 

 運転手は小さく笑ったような気がした。

「どうぞ」

 

 結衣は少し大げさなくらいの笑顔でそれを受け取り、すぐに口に入れた。

 甘いクリームが乾いた口の中に広がった。

 

 高速道路に乗り、一時間近くが過ぎようとしていた。

 車窓の外を流れる夜景をぼんやりと眺めていた、その時だった。

 下腹部の奥で、何かがぐるり、と大きく動いた。

 

(…え?)

 直後、経験したことのないような、腸がねじ切れるような激痛が走る。

 脂汗が、ぶわりと肌に浮き出た。

 

(痛い、痛い痛い…!  なにこれ、お腹こわした…?)

 飲み会で何か変なものでも食べたのだろうか。

 自分の不注意を呪いながら、結衣は必死に痛みをこらえようとする。

 だが痛みはすぐに、抗いがたい便意へと変わっていった。

 

(うそ、うそでしょ!? こんなところで!?)

 

 パニックになった結衣は消え入りそうな声で運転手に懇願した。

「すみません、あの、 お腹が痛くて…!  どこか停まってもらえませんか…?」

 

 バックミラー越しに運転手の目が結衣を見る。

 その目は意外なほど穏やかに見えた。

 

「大丈夫ですか? 飲みすぎちゃったかな?」

 その優しい口調に結衣は逆に罪悪感を刺激された。

 

「ご、ごめんなさい…!  ちょっと、お腹が苦しくて」

 

「そうですか。とは言っても、高速道路ですからね……」

 運転手の声は落ち着いている。まるで一緒に困ってくれているかのような口ぶりだった。

 

 確かに、窓の外は高速道路。

 停める場所は、どこにもない。

 しかし、結衣の腸は今にも破裂しそうに痛む。もう限界だった。

 

「う、うう…っ」

 嗚咽が漏れた、その時だった。

 

 運転手は諭すような静かな声で言った。

「人間ですから、仕方ないですよ。我慢しなくていいですから」

 

 その言葉が頭に染み込む。

 我慢しなくていい。

 そう言われた瞬間、結衣の体から力が抜けた。

 

 熱い泥のような奔流が、下着の中にあふれ出していく。

 

「……やだ」

 自分でも信じられなかった。

 こんなこと、あるはずがない。

 

 でも、体は、もう自分のものじゃない。

 熱い泥のようなものが止まらない。

 悪臭はあっという間に車内へ広がった。

 結衣はその場から消えてしまいたい気持ちになった。顔を両手で覆い、謝り続ける。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 涙が指の隙間から溢れ出て止まらなかった。

 だが、その涙は、ただの羞恥心からくるものではなかった。

 こんな自分を怒鳴りもせず、ただ静かに許してくれた運転手に対する、歪んだ感謝と罪悪感が、ぐちゃぐちゃに混じり合っていた。

 

 寮に着くまで、運転手は何も言わなかった。

 寮の前の薄暗い路地にタクシーが停まる。

 運転手はゆっくりと振り返ると、シートを見て、穏やかな表情のまま言った。

 

「大変でしたね。でも、まあ、しょうがない」

 

 その言葉に結衣は「ごめんなさい」と、また泣きそうになった。

 

「それで、特別清掃代と迷惑料で、5万円になります」

 

「……え?」

 

 学生にとって大金である5万円という金額に結衣は思わず怯んだ。

 しかし、改めて自分の座っていたシートに目を落とす。

 そこには言葉を失うほどの惨状が広がっていた。

 

(…そうだよね。こんなに汚しちゃって…。このタクシー、今日の営業はもう無理だろうし、これを掃除するのだって、すごく大変なはず。そう考えたら、5万円でも…安いのかもしれない。この人、怒鳴りもしなかったし…)

 

 恐怖よりも、申し訳ないという罪悪感が結衣の心を支配した。

 

「は、はい…! 申し訳ありません!」

 結衣は慌ててスマートフォンの決済アプリを起動し、言われるがままに5万円という金額を支払った。

 

 車を降り、寮の部屋に戻っても結衣はまだ混乱していた。

 自分の身に起きたことは、ひどい屈辱だ。

 でも、それと同じくらい、あの運転手への申し訳なさで胸が潰れそうだった。

 

「人間ですから、仕方ないですよ。我慢しなくていいですから」

 

 その声が、いつまでも耳の奥に残っている。

 それは、絶望の淵で自分の醜さを受け止めてくれた理解者からの優しい言葉として、結衣の心に響いていた。

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