神崎 麗奈 (かんざき れな) 31歳
フリーランスのライター。
観察眼が鋭く、常に物事を疑ってかかるのが癖。用心深く、自立心も強い。
土曜の夜。
新宿三丁目の喧騒は週明けの締め切りを抱える麗奈にとって現実逃避の場だった。
「じゃ、また来週。ちゃんと原稿あげなさいよ!」
編集者たちと軽口を叩き合って別れた後、麗奈はコートの襟を立てて大通りへと向かう。
アルコールで火照った体に夜風が心地よかった。
彼女は歩きながらも、常に周囲に意識を配っていた。
すれ違う人間の顔、路地の暗がり、背後から来る足音。
長年の取材経験が、それを無意識の習慣にしていた。
一台の古びたセドリックが彼女の前で停まる。
麗奈は乗り込む前に、まずナンバープレートを記憶し、車体に会社名を示す表示がない「個人タクシー」であることを確認した。
ドアが開き、鼻につく芳香剤の匂いがする。
「市川まで。京葉道路で」
運転手は「はい」と短く答える。
麗奈はバックミラー越しに運転手の顔と、ダッシュボードに掲示された「小田切」という名前を一瞥した。
そして何気ないふりをして、友人に『今からタクシー。個人の小田切さん』とだけメッセージを送る。
自己防衛は、やりすぎるくらいが丁度いい。
高速に乗る前の赤信号で、運転手が「サービスです」と言って、栄養ドリンクの小瓶を差し出してきた。
「いえ、結構です」
麗奈は間髪入れずに、きっぱりと断った。
見知らぬ人間から理由もなく施しを受ける趣味はない。
「そうですか。まあ、もし喉が渇いたら、どうぞ。サービスですから」
運転手は気分を害した様子もなく、そう言って、ドリンクを後部座席のカップホルダーに置いた。
車は静かに高速道路を走り続ける。
麗奈はノートPCを開き、取材メモの整理を始めた。
カタカタとキーボードを叩く音だけが車内に響く。
一時間ほど集中した頃だろうか。
暖房のせいか、喉がカラカラに乾いていることに気づいた。
(…なんか、喉乾いたな)
ちらり、とカップホルダーに置かれたままのドリンクに目がいく。
(いや、ないない。基本でしょ)
自分に言い聞かせる。
だが、一度意識してしまうと、渇きはどんどん強くなっていく。
(…でも、未開封の栄養ドリンクでしょ? どうこうできるもんじゃないし。さすがに考えすぎか)
男はただ、黙々と運転しているだけだ。
あの後、何か話しかけてくるわけでもない。
(…考えすぎ、考えすぎ)
麗奈は自らの過剰な警戒心をあざ笑うようにドリンクを手に取った。
キャップは固く閉まっている。
カチリ、と封が切れる、あの新品の音がした。
大丈夫。
彼女は自分にそう言い聞かせ、液体を喉に流し込んだ。
…ガクン、という軽い衝撃で麗奈は目を覚ました。
高速の出口の料金所を車が通過したところだった。
(…寝てた? 私が?)
ありえない。この私がタクシーで眠るなんて。
頭が霧がかかったように重い。
そして下半身に、じっとりと濡れた不快な感触があった。
まさか、と思って自分の体を見下ろし、そして血の気が引いた。
履いていたパンツスーツの股間のあたりが、ぐっしょりと濡れて、色が変わっている。
シートにも黒い染みが広がっていた。
ツン、と鼻をつくアンモニア臭。
(…なに、これ)
理解が追いつかない。
混乱する頭で、床に転がっている空の栄養ドリンクの瓶が目に入った。
あの運転手がくれたもの。
封は確かに切れていなかったはずだ。
全身が、わなわなと震え始めた。
自分の警戒心は、プライドは何だったのか。
この男は私が「大丈夫だ」と思い込むことまで、すべて計算していたというのか。
バックミラーの中で運転手の目が、じっとこちらを見ている。
その目には、嘲るような、勝利を確信したような、歪んだ光が浮かんでいた。
自宅マンションに着く。
「メーター1万5千円。クリーニング代込みで、4万円です」
その淡々とした声が、麗奈の崩れ落ちたプライドを、さらに踏みつけた。
彼女は怒りで震える手でクレジットカードを渡し、言われた金額を支払った。
部屋に駆け込み、鍵をかけた瞬間、麗奈は叫び声を上げて、近くにあった雑誌を壁に叩きつけていた。
屈辱よりも、腹立たしかった。
自分の鉄壁だったはずの扉を、いともたやすくこじ開けられた。
あの男にしてやられた。
その事実だけが焼印のように彼女の心に刻み付けられた。