早乙女 京子 (さおとめ きょうこ) 34歳
銀座のバーで働くバーテンダー。
常に冷静で物事に動じない性格。仕事柄、酔客のあしらいも手慣れている。
土曜の深夜二時。
最後の客を店の外まで見送り、京子は固く閉ざされたバーの扉に背をもたせ、長い煙草を一本吸い終えた。
片付けを終えた身体は心地よい疲労に満ちている。
銀座の夜気は、まだどこか華やかで騒がしい。
「さて、と」
誰に言うでもなく呟き、大通りへ出て流しのタクシーに手を上げた。
藤沢の自宅までは長い道のりだ。
停まったのは古びた濃紺のセドリックだった。
乗り込むと、芳香剤の強い匂いがする。
「藤沢まで。東名でお願いします」
運転手は「はい」と短く答える。
京子はバックミラー越しにそのいかつい顔を観察した。
(手強そうなオヤジだな)
長年、カウンター越しに様々な人間を見てきた。
この男は自分の世界に閉じこもる典型的なタイプだ。
下手に話しかけない方がいい。
京子はそう判断し、窓の外の景色に意識を移した。
タクシーが首都高速に入り、しばらく走った頃だった。
車が、がくん、と一度、不自然に揺れた。
そして、ゆっくりと速度を落とし、路肩に停車する。
「すみません、お客さん。ちょっと計器の調子が」
運転手はそう言うと、ハザードランプを点滅させ、車から降りていった。
京子は、ちっ、と舌打ちする。
面倒なことになった。
数分後、男は「お待たせしました」と言って戻ってきた。
「どうも電気系統の接触不良だったみたいで。驚かせてすみません。お詫びに、これをどうぞ」
差し出されたのは有名洋菓子店のロゴが入った個包装のチョコレートブラウニーだった。
「いや、いいですよ別に」
「いえ、そういうわけにもいきませんから」
丁寧だが有無を言わせぬ口調。
ここで意地を張るのも大人気ない。
「…どうも」
京子はそれを受け取ると、口に放り込んだ。
濃厚なチョコレートの味がした。
車は何事もなかったかのように再び走り始めた。
異変が起きたのは乗車してから一時間が過ぎた頃だった。
腹の奥が熱を持ったように、じくじくと痛み始めた。
(…なんだ?)
京子は酒には強い。
食あたりするようなものも、ここ数日、口にしていないはずだ。
痛みは、すぐに腸を内側から抉るような強烈な痙攣に変わった。
脂汗が背中を伝う。
(嘘だろ…)
そして、それは抗いがたい便意へと姿を変えた。
「おい、アンタ」
京子は思わず、いつも店で使うようなドスの利いた声を出していた。
「悪いけど、次のパーキングで停めて。具合が悪い」
運転手はバックミラーで京子を一瞥した。
「お客さん、どうも、顔色が悪いようですが」
「いいから、停めろって言ってんだろ!」
だが男は平然と走り続ける。「高速なもんで、ねえ…」
その時だった。
背後から、けたたましいサイレンの音と共に赤色灯の光が車内を照らした。
パトカーだ。
『前のタクシー、停車しなさい』
拡声器からの声。検問だった。
(助かった…!)
京子は神に感謝した。
タクシーが路肩に停まる。
警官が二人、懐中電灯を照らしながら近づいてくるのが見えた。
「ご協力、どうも。免許証、お願いできますか」
運転手は驚くほど落ち着いた様子で免許証を渡している。
もう一人の警官が後部座席の窓をノックした。
京子が窓を開ける。
「深夜にすみませんね。お客さん、大丈夫ですか? なんだか、顔色が悪いようですけど」
今だ。言え。この運転手がおかしい、と。
だが何と言えばいい?
『この人がくれたお菓子を食べたら、ウンコが漏れそうで…』
そんなこと、言えるわけがない。
言ったところで信じてもらえるのか?
警官の訝しげな視線が痛いほど突き刺さる。
その逡巡の、わずか数秒。
腹の奥で、何かが決定的に決壊した。
「…大丈夫、です。ちょっと、酔ってるだけなんで」
京子の口から出たのは、そんな言葉だった。
「そうですか。お気をつけて」
警官はそう言うと離れていった。
パトカーが走り去っていく。
救いの手は無慈悲に遠ざかっていく。
そして、京子の身体から最後の理性が消え失せた。
熱い泥のようなものが、意思とは無関係に溢れ出す。
悪臭が狭い車内に充満した。
京子は、ただ、奥歯をギリギリと噛み締めることしかできなかった。
自宅に着く。
運転手は後部座席の惨状を一瞥すると、愉悦を隠しもせずに言った。
「いやあ、警官の前じゃなくて良かったですねえ、お客さん。…で、清掃代は5万円です」
京子は震える手でカードを渡し、その金額を支払った。
車を降り、自宅のドアに鍵をかけた瞬間、彼女は生まれて初めて大声で泣いた。
助けを求めることすらできなかった自分自身の弱さを呪いながら。